11年半のOL生活にピリオドを打ち、ビール職人をすることになった。
…という転身が、人から見ると稀有らしく、「何が、どうして、どうやって?」と、会う人会う人「はてな」だらけになっているようだ。
理由はいろいろあるけれど、1年半住んだシェアハウス「東京キチ」、実はこの影響も少なくない。今日はそれを整理してみよう。
「東京キチ」に入ったきっかけ
私がキチに入ったのは、昨年9月のことだった。
本郷で6年暮らした築50年のマンションが老朽化して、我慢できなくなったのが直接のきっかけ。
その頃の希望としては、「文京区内」が必須。できれば独り暮らしよりシェアハウス、マンションよりも古民家だったが、そんな物件なかなかなく、
キチ(及び谷根千)にはよく来ていたし、古民家じゃないけど一軒家だし、空きが出たと聞いたときは、迷いなく決めた。タイミングってやつだ。
OLではない人生の選択
その頃のキチは、インバウンド優先のゲストハウスだった。
日本人はオーナーと私の2人。長期滞在が多いとはいえ、来る日も来る日も違う外人(最大3人)がいる。基本、会社と家の往復しかしない私にとって、キチは家でありながら異世界の入口となった。
異世界といえば、オーナーの仲間もよく来て、同じくゲストハウスオーナーだったり、地域おこし人材だったり、デザイナーだったり料理研究家だったり映画人だったり。。。
とにかく、東京、日本、世界各地から、さまざまな職業の人が来ては、「あなたは何をしている人?」と聞かれる。「OL」と答えるのが苦しくなるのに、そう時間はかからなかった。
OLである自分と、自分らしい肩書を生きる人との間に、どんな違いがあるのか。観察を始めた矢先に、分かったことがコレだ。
協力者という問題解決の方法
入居して半年が経つ頃、「民泊法改正」により、ゲストハウスとしての営業ができなくなった。
一軒家の高い家賃は、ゲストハウスの売上で担保されている。ゲストハウスができない=自分たちも退去という末路だ。私は生まれて初めて「住むところが亡くなるかもしれない」危機に迫られることになった。
ゲストハウスが儲かると見るや、急に規制を敷く国家権力には憤慨したが、そんなことより印象的だったのは、「嘆くよりできることを考える」というオーナーのスタンス、そして協力者たちの存在だった。
ゲストハウスを断念した1週間後には、仲間を集めて作戦会議。
シェアハウスとしての存続を決め、求人ページを作成。そしてドタバタ転居しないで済んだ、平穏な今に至るということを忘れてはなるまい。
コレにも書いたけど、私は「必要な未来」を自ら獲得したのだ。動くことによって。
というわけで、私にとって『東京キチ』とは、ビール職人に至る具体的行動を始める上で、必要十分な「環境」だった。「発芽できる条件の整った土」でもいいかもしれない。
私が会社について愚痴れば、「さっさと辞めちゃえ」と平気でいってくるオーナー。実際それで生きている人たち。協力者や顧客は、東京だけでなく、日本中、世界中から得られるということ。そして、自らの行動によって、大きな困難も乗り越えたこと。
要するにここは、「一歩踏み出す」ことが当たり前の世界なのだ。
何故なら、「転びそうになっても助けてくれる人がいる」感覚と、「本当にどうにかした」実績があるから。
「安定より、安泰より、自分らしい人生だ」という方に、入居を強く勧めます。