・違和感を大切にする
・目の前の人に優しくする
・とはいえ、逃げるときは逃げる
ここ最近、「クローゼットの見える化」をしている。今ある服をリストアップして、管理してみる試みだ。
毎朝、着替えるときにノートを開き、着た服と回数を記録する(アプリもあるらしいけど、そこはアナログで)。しばらく続けていくと、よく着る服とそうでない服があることが分かってくる。奥底から発掘しては「おぉ、久しぶり!」なんてこともある。
実際、見える化までしなくても「この服、よく着るなぁ」ぐらいは分かるのだが、とはいえ「感覚で分かる」ことと「データではっきり見せられる」ことには、大きな違いがあるようだ。
今まで服は気分で選び、結果、同じ服ばかり着ていた私。同じ服ばかり着るからそれだけがボロボロになり、着ない服は着ないまま。正直、「肥やし」だらけだった。
が、見える化を始めてからというもの、出番の少ない服や、肥やしと化した服を「敢えて」着ることが増えた。
「あぁ、こんな服あったなぁ。」「あらっ、この服意外と素敵(←自分で買ったくせに)。」
そうこうする内に、「新しい服を買う」ところまで気が回らなくなり、先月にも増して支出が減った。
「足りない」と感じれば買いたくもなるが、今回の取り組みによって「足りてる」ことが見える化されてしまったのだろう。
「暮らしの改善」は奥が深い。
当初の目的は「1票の格差」ならぬ「1着の格差」を減らすことだった。買うときは真剣に買うのに、すぐに飽きて着なくなる服をなくしたかった。
が、結果として分かったのは、「足るを知る」ということ。
足りない、足りないと感じるとき、本当に足りていないのか。「既にある」ものにちゃんと目が向いているか。
これはクローゼットに限らず、自分の置かれた環境や能力などでも同じかもしれない。「意外と足りてる」ことに気づくと、心まで落ち着いてくるから不思議だ。
老人ホームで暮らす祖母(96才)に「新品の葉書」を送ってあげた。
「葉書が欲しい」とスタッフさんに頼んだが、まだ買ってもらえていないことが分かったからだ。
祖母は2月まで、母(73才)の近くで暮らしていた。毎日のように顔を合わせていたが、歩けなくなったためホーム入り。親族に会う頻度は、月に数回となってしまった。
食べる、寝るしかないような、ホームの暮らしは退屈そう。それでも離れて暮らしていれば、伝えたいことも溜まるのだろう。
葉書といえば私には、昔、集めたコレクションがあった。主に海外旅行で集めた印象派の絵画で、クッキーの箱にしまってあるが、残念ながら「開かずの箱」と化してしまっている。「葉書が欲しい」と聞こえた瞬間、「あれの出番だ!」と閃いた。
早速、箱の中から夏っぽい6枚を選び、封入。郵便局まで出かけて63円切手も書い、シートごと入れて投函。
きっと明日か明後日には、祖母はあの部屋でその封筒を受け取る。
「ゆかこ…娘の…娘じゃったかいね?」と首を傾げつつ封を切る祖母。中の葉書を確認すると、よたよたと立ち上がり、誰に何を書くつもりだったか記憶を取り出すようにして、ペンの入った引き出しを開ける。
そんな姿を想像したら、食べる、寝るしかないような祖母の暮らしに、私が新風を吹き込んであげたような、とても爽やかな気分になった。
前回も書いたように、「誰かを想う」ことは原則的に楽しい。
今回の葉書は多くが、母のところに送られるだろう。書いているその間、母を想って祖母は楽しむ(きっと)。受け取った母にしても、娘の葉書に老母の文なんて、ちょっと素敵なコラボじゃないか。
私が祖母を想い、祖母が母を想い、母もきっと私を想う。そこに小さな喜びのループが生まれる。
稼ぐ力のない私は、高いものを買ってあげることができない。けれど喜びだけなら、知恵と工夫で作ってきたきた、つもり。
それにしてもこの頃は、不安なニュースばかりが溢れている。日本の未来ははっきり言って明るくない。
が、そこでどう暮らすかが工夫のしどころというもので、不安が不安を煽り、恐怖が恐怖を煽るように、喜びは喜びを煽ることができる、と私はどこかで信じている。
まぁ、そこまで大層なエピソードでもないけど😅不安や恐怖に苛まれるときほど、目の前の人を大切に、喜びの自給自足でもしてみるのはどうだろうか。
『ボブという名の猫』という映画を見た。
薬物依存のためホームレスになった男が、「ボブ」という野良猫に出会ったことで、生きる希望とチャンスを得るという、イギリスで実際にあった物語だ。
主人公に懐く猫がかわいらしく、また猫がかわいらしいからチャンスが来たようにも見えるのだが、本当のポイントは、孤独だった主人公が、猫という「ケアする存在」を得たことだった気がする。
「ボブがいたから頑張れた」。私の目にはそんなメッセージに映ったのだ。
さて私は最近、ある人のために頑張っている。
自信がなさそうなときは、肯定的な言葉をこれでもか!というほど浴びせ、元気がなさそうなときは、体に良いものをこれでもか!というほど食べさせる。困ったことがあれば聞き、一緒に考えてあげることもしばしば。
頼まれたわけでもないのに頑張れるというか、次は何をしてあげられるか、ひとりでに考えてしまう自分がいるのだ。
映画との共通点でいえば、「ケアする存在」を得たことで、力が湧いてくるのを感じている。「その人がいるから頑張れる」。孤独で利己的だった私に、こんな日が訪れるとは!
…と、何を驚いているかというと、ケアには「しんどい」イメージしかなかったからだ。子育て、看護、介護など、「誰かのためにする」なんて、私には到底できないことだと。
ところがどっこい、今は楽しい。ケアって本当は、しんどいの? 楽しいの? どっち?
ひょっとしたらそこには「分水嶺」があるのかもしれない。以下、仮説を考えてみた。
・当事者が自助努力をしている(ように見える)
・その上で、当事者がケアされることを求めている
・ケアする側にケアを担う能力(キャパシティー)がある
マトリクスにするとこんな感じになるだろうか。
恐らく、映画や私は①。楽しい子育てや、普通の助け合う関係も①に入るだろう。
それ以外のケアが、いわゆる「win-winでない」ケアに当たりそう。②は教育ママ的な問題(ありがた迷惑型)、③はワンオペ育児や介護など(キャパオーバー型)、そして④は…尽くしすぎてしまう女とかかな(貢ぐ型と呼ぼう)。
…改めて分類してみるとほぼwin-winじゃないっていうか、これら全てを個人の責任に矮小化するのは無理があるな。高齢者などケアを求める人がますます増えるって中で、気候や景気と同じぐらい、注目すべきテーマなのでは…。
がっ、今日考えたいのは「公助」ではない。ケアをなるべくwin-winにするために、自分の《心がけ》でどうにかできることはないのだろうか。せっかく「ケアすべき存在」がいるというのに、誰かが苦しむなんて辛いじゃないか…!
《心がけ案》
自分がケアするとき:相手が求めていることか、自分ができもしないことまで頑張ろうとしていないか見極める。
自分がケアされるとき:ケアしてもらったら喜びを伝える。喜びを感じないなら丁重に断る。
②〜④を見かけたとき:困っていることがないか聞き、できる範囲でケアしてあげる。
要は心がけで①を増やそうってことだ。ケアの全てが「しんどい」わけではないのだから。
確かに、公助の不足は気になる。けれど、個人には個人的なことしかできない、という前提で、例えば「満員電車」に新しく1人乗ろうとするとき、前から乗っていた人たちが1センチずつ詰めることで新しい1人分のスペースができる、みたいなことがあるように、個人が始める個人的なことは《心がけ》からしかないはずだ。
まずは自分のところから、小さなwin-winを増やしたい。巧く付き合いさえすれば、ケアは喜びの源泉になるはず。
山下達郎のにわかファンになった。
きっかけはラジオ。11年ぶりにアルバムをリリースした山下達郎が、毎週聞いているTBSラジオにゲスト出演。…だけでなく、文化放送やニッポン放送にも出ていて、極めつけはNHKラジオで8時間に及ぶ特番が組まれていたところに、妻である竹内まりやさんがゲスト出演していたのだ。
まりやさんといえば30代の頃、どれだけ歌わせてもらったか分からない。私は今でも冗談抜きで、『純愛ラプソディ』を歌うか、親がいなくなることを想像すれば3秒で泣ける。それほど心酔していた方である。
そんな私にとって、山下達郎=まりやさんの夫で『クリスマス・イブ』の人、というイメージしかなかったのだが、まりやさんのトークを聞いていたら、とんでもなくとんでもない人ではないか!
ということでファンになって、現在開催中の全国ツアー、11000円もするチケットを申し込んでしまった。競争率80倍らしいけど。
聞いている中で一番感銘を受けたのは、山下夫妻の関係性について。一言でいえば、「相手の大切なものを自分も大切にする」。その姿勢が信頼関係の要になっているような気がした。
達郎氏の大切なものは音楽だが、まりやさんは元々「シュガー・ベイブ」時代からのファン。その音楽を長く聞きたいから、長く活動してもらうために、「内助の功」を選んだ、とのこと。トークでは「たんぱく質を取るために納豆を食べさせる」みたいな発言も聞かれたが、実際、69才で全国ツアーができるなんて、その賜物でしかないだろう。
一方まりやさんも、(家庭の次に?)自身の創作を大切にしている。内助の功の合間に作り貯めては、達郎氏の体が空いたときに曲を仕上げてもらうらしいのだが(だからリリースの間隔が空く)、結婚する前は「アイドル」的扱いだったまりやさんが、後に「カリスマ」とまで呼ばれるようになったのは、達郎氏の楽曲がなければ、不可能だったかもしれない。
にしても、山下夫妻が素敵であることは以前から分かっていたが、私にも真似できるレベルまで落とし込めたのは良かった。昔から憧れるのは憧れていたが、「ミュージシャン同士の結婚」までは、ちょっと真似できませんから。
というわけでポイントは、
相手の大切なものを自分も大切にする。
これを肝に銘じていこう。
そして、日曜日の14:00〜はTOKYO FMを聴こう。年2回の「夫婦放談」はメモ取りながら聞こう_φ(・_・
ヨガを始めて2年が過ぎた。
コロナ太りを機に始め、多いときは週6、最近では週3、暑くて溶けそうな夏の日も、寒くて凍りそうな冬の日も、ただひたすらに通った。
そして気づけば2年が経ち、当初の目標「マイナス6キロ」を遂に達成することができた。やったー!!
ヨガを始めたばかりの頃、インストラクターさんたちの「薄い」体を見ては、「ヒトってあんなになれるのか…」と指をくわえながら見ていたものだが、私も少しは薄くなった。ま、若ければ2年もかからないだろうが、取り敢えず喜んでおこう。
さて、痩せた痩せたといっているが、ヨガ「だけ」で痩せたわけではない。というより、ヨガだけでは痩せない。
確かにヨガは、筋肉をつけてくれたし、代謝も上げてくれた。が、体重を落としてくれた本当の立役者は「この間、食べたもの」のような気がしている。
ダイエットは結局のところ、「食べたい自分」との闘いだ。運動をすればするほど、筋肉が増えれば増えるほど、食欲だって増えてくるのが当たり前。そんな中で、何をどう組み合わせて食べるか。それが真のテーマだったような気がする。
というわけで今日は、私が2年のヨガ暮らしを通してたどり着いた、(私にとって黄金の)ダイエット食について記載しておきます。
味◎、量◎、栄養◎で、(私は)どんなに食べても太りません。
【朝食】
・スムージー
バナナ、豆乳、ミスカル(「きな粉」みたいな韓国の伝統食材)をミキサーで混ぜる
・きのこサラダ
きのこ3〜5種を炒め、レタス、ベビーリーフ、ブロッコリースプラウトに載せる
【昼食】
・フルーツヨーグルト
ヨーグルトにりんご、みかん、バナナ、キウイ、ブルーベリーと酵素シロップをかける
・蒸し緑黄色野菜
ブロッコリー、人参、かぼちゃなどの緑黄色野菜をフライパンで蒸す
【夕食】
・玄米雑炊
味噌汁のようなものを作り、玄米(茶碗1/3杯ぐらい)を煮る。卵を落としてできあがり。
・青魚と納豆ともずく
以上。
今では、本当にこれだけを食べた日は、翌日500gぐらい体重が減る。自由に食べてカロリーオーバーする日もあるので、これで帳尻を合わせている。
今後の目標は、「あと4キロ痩せる」つもりだったけど止めて(今のBMIが健康らしい)ので、体脂肪率を3%下げることに決めた。ちなみに2年で3%下がったので、また2年かかるのかな…?
それにしても、2年前にヨガを始めた自分はgood jobだった。このダイエット食を考案できたことはもちろん、体は30代より元気になったし、心も晴れていることが増えた。少しもやもやする日だって、ヨガで汗さえかけば、たちまち「あれ?何でもやもやしてたんだっけ?」となってしまう。
「ヨガだけでは痩せない」とは書いたけれど、「暮らしの質」は確実に上がった。つまり、ダイエットなんて世俗的な目的ではなく、もっと崇高なところに効いてくるのが、ヨガだということにしておこう。
例年より早く梅雨明けした6月。暑い、暑すぎる。私が年を取る頃の日本は、一体どんな気候になっているんだろう。
さて、恒例のふりかえりです。
2022年6月は、
・blogをよく書いた
・婚約者との仲が深まった
・感情の取り扱いが巧くなった
・痩せた
・出費を減らせた
…1ヶ月だった。
私は恐らく、blogを書くときと婚約者といるときに同じぐらいの充実感を得ていて、それに加え6月は、良き映画や音楽などに出会えたことで、感情が安定してくるのを感じた。この、見渡す限り不安しかないような時代に。
全体としては、日々の小さな努力が確実に実ってきたような感じで、この「できる!」という感覚も感情に影響を与えていそう。
「これとこれとこれさえあれば幸せ(それ以外は要らない)」っていう核心に近づいている気がするので、7月は更にそれを磨く月にしたい。
以下、定量の成績。
・ヨガ:実績スタジオ13回+オンライン25回/目標15回ぐらい(◎)
・映画:実績5本/目標4本(◎)
・本:実績4冊/目標4冊(○)
参議院選挙が始まった(7月10日投開票)。
20才で選挙権を得て以来、投票には「何となく」行っていたが、コロナ禍以降は少し変わって、暮らしと政治の関わりだとか、投票することの意味だとかが分かるようになってきた。
前回の投稿で「困っていることがあるなら、然るべき人に文句を言おう」というようなことを書いたが、投票とはまさにそういうことかもしれない。然るべき人=現状に責任を取ってくれそうな政治家を自分で考え、自分の意見を伝えること。その権利をみすみす放棄する理由はない。
そんな選挙を前に、ぜひ読みたい本がある。
タイトルが長い。長いけど、その分、内容も切実だ。
筆者はフリーライターの和田静香さん。昔は音楽ライターで食べていたが、音楽業界が元気だったのなんて20年前のこと。50代・独身・女性・フリーランスの暮らしはみるみる貧しくなり、アルバイトで補おうにも「時給はいつも最低賃金」。そんなとき、ある政治家のドキュメンタリー映画を見て、「この暮らしって本当に私(だけ)のせいですか?」と詰め寄ったのがこの1冊。
文句を言う相手として、小川淳也氏(立憲民主党)を選んだのが何より幸いだったが、片や何だかんだエリートの国会議員と、片や生活苦のフリーライターとの対話は、あるときは氷河のように凍りつき、あるときは雪融けのように温かい。立場が異なることによる「伝わらなさ」を感じさせると共に、ひょっとしたら自分の抱える苦しみも、こんな風に融けることがあるのでは?という気にさせてくれる。
「時給はいつも~」が売れ、暮らし向きの良くなった和田さん。昨年10月の衆議院選挙では、恩人である小川さんの選挙区で、みっちりボランティアをしたそうで、その期間のことが、また1冊にまとめられた。
選挙活動というと、威勢の良い演説だったり、候補者の名を連呼する選挙カーだったりのイメージがあるけど、小川さんの選挙はちょっと違っていて、市民側のさまざまな声を「聞く」シーンが目立ったとのこと。
「青空対話集会」と名付けられたその会は、日を追うごとに大きなうねりとなって、小川さんは最後、対抗馬であり、香川のメディア王でもある平井氏を大差で破った。現地で目の当たりにした和田さんは「これが民主主義だ」と書いている。
とはいえ、「日本は民主主義だ」って学校では習ったけど、実際の政治を見てみたら、偉そうなおっさんがふんぞり返ってるだけじゃないか。悪いことしたって罰も受けないし、未だに貴族院の時代かよ!
と言いたくなるのは分かる(私も言ってる)。
でもそれが嫌だったら、というか嫌だからこそ、文句を言うのが投票だろう。権利は行使するから権利なのだ。
そして、ちょっとだけ欲を言くなら、私も「民主主義」を体験してみたい。
身近な人が、最近、職場で苦しんでいる。
辞めた前任の「やらかし案件」が、毎日発覚するらしい。5月末の退職からもう3週間も経つのに、連日火消しに追われているそうだ。
身近な人(以下Mくん)が今の部署に異動したのは3月。1人部署なので前任(以下Zさん)だけがいたが、Zさんは「大丈夫です、大丈夫です」を繰り返すばかりでまともな引き継ぎをしてくれない。一体何が「大丈夫」なのか。
Mくんは渡された資料(A3・2枚)とそこに示されたファイルを見て、自主勉強に努めた。次第に分からないことが出てきたので質問すると、スルーされるか、「これを見て」と言われるも、内容がまた意味不明。
几帳面な性格であるMくんは、遅々として進まない引き継ぎにストレスを感じていたが、いざ6月に入り本当に1人になると、毎日毎日「聞いてなかった」案件が発生する、とのこと。
ありそうな話ではあるが、さすがに毎日となると度を超えている気もする。私が傾聴に努めていると、Mくんはこんなことを言い出した。
「ここまで酷い辞め方は、Zさんから会社に対する『仕返し』なのかもしれない。」
どういうことかというと、Zさんは中途入社だったが、周辺部署との関係構築が重要な当該部署にたった1人で8年置かれた。そのせいか周辺部署との業務分掌がめちゃくちゃになっており、Zさんにも問題はあったものの、頑張っても評価されないような雑務をさんざん押し付けられていたようだ。人事は見てみぬふりをしていたのではないか、と。
その被害を今や自分が受けているMくんなのに、Zさんだけのせいにせず、組織の責任にまで言及するとは。や、優しい。
ちなみにMくんの会社は、なかなか腐った組織である。
偉い人たちは金と出世しか頭にない。組織の未来や部下の成長なんか考える管理職は皆無で、その意思決定は時代錯誤なものばかり。そのくせ上に従えない者は、人事とパワハラで押さえつける。どっかで聞いたことのある話だが、それもそのはず。Mくんの会社は日本の権力構造の中枢に近い業界なので、文化的にもそれに近いのである(私の推測です)。
ちょうど聴いていたラジオで「失われた30年」が話題に上っていた。
バブル崩壊(1991年)以降30年以上にも及ぶ経済的低迷のことだ。日本が経済大国だったのは昔の話。私もその一人だが、国民の暮らしは貧しくなった。
私が社会に出たのは2002年のこと。その末端でほぼ休みなく働いてきた肌感覚で、この30年に失われたのは次の3つではないかと考えている。
・バブル崩壊〜2000年ごろ:経済成長
・2000年ごろ〜2010年ごろ:安定雇用(など人材への投資)
・2010年頃〜現在:働く人たちの心(パワハラ、メンタル、企業倫理の失墜など)
経済成長しないので、会社は社員を大切にしなくなった。結果、働く人たちの心が荒んでしまった。
もちろん、そんな会社ばかりではないだろうけど、このように考えていくと、Mくんの意見も理解できる。大切にされなかった人は、組織に報いることもできないのだ。Zさんだけに責任を問うのは、確かに間違いかもしれない。
ここでもう1つ、昔聞いたスピーチを思い出した。
今から10年近く前、R社という日本有数の営業会社で、当時まだ珍しかった「女性」が部長に就任したときの内容だ。
「仕事や働き方について文句がある人は遠慮なく言ってください。1人で言えば文句かもしれないけど、多くの人が言うことならそれは立派な「課題」です。それを解決する責任が私にはあります。」
当時のR社はゴリゴリの体育会系。気合と根性は非常に大切だったし、少なくとも見た目は、どんな壁にも立ち向かう強靭な社員が多かった。「文句」が黙殺される文化も少なからずあった中で、敢えてのこのスピーチである。目から鱗が落ちてしまった。
要は、目の前の問題を誰の問題と捉えるか、なのだ。
個人だけの問題か、それとも組織の問題か。ひょっとすると社会の別の場所でも起きている問題かもしれない。
「よくあること」「○○さんに責任がある」「辛いだろうけど頑張れ」で済ませるのではなく、本当は誰の問題なのか、捉え方によって対応や責任を負う人も異なるだろう。
毎回Mくんに伝えるのは、「自分の心身を守って欲しい」ということぐらい。苦労する人が潰されるないためにも、問題を俯瞰して捉えなければならないわけだが、責任主体が遠くなるほど対応は難しくなくなってしまう。
不幸な連鎖をこれ以上大きくしないために、小さな個人には一体何ができるだろう。その始まりは、然るべき人に伝える「文句」なのかもしれない。
暑かったり寒かったりじめじめしたり、毎晩どんな覚悟で寝れば良いのか分からない!
この時期よくあるこの問題。
暑さ寒さで眠れなくなるなんて知らなかった頃は、「不眠 ストレス うつ」などと検索しては、かえって眠れなくなる、というようなことを繰り返しておりました。
そして今年も梅雨が来て。
「また眠れなくなるのかぁ」なんてモヤモヤしかかっていたけれど、一体どうしたことだろう。今年の私は何か違う。ある救世主のおかげで、毎晩熟睡。毎朝ピンピン、なのです。
「ある救世主」とは睡眠分析アプリのこと。
スマホを枕元に置いて寝ると、音や揺れなどから、熟睡度を分析してくれるというものだ。
導入したきっかけは、GWで実家に帰ったときに母から「あんた、凄いいびきかいてたよぉ~(ニヤニヤ)」といわれたこと。とっても嬉しそう(?)に教えてくれるのだが、自分では聞けないから共感できない。そんなとき、「いびきを録音してくれる」ものがあることを知った。
早速ダウンロードして、アラームをセット。枕元に置いて寝る。
↓
朝になると、目の覚めやすい(眠りの浅い)タイミングでアラームが鳴ってくれる。
ベッドの中でもぞもぞしながらアプリを確認してみたら、おぉっ、大量の音声データが残されている。「ふがっ!ぐぉ~ぐぉ~」と、母が再現してくれた通りだ。送りつけようとしたが、送り方が分からなかったのでやめた。睡眠アプリ、楽しい。
ただ、これで熟睡できるようになったわけではない。この時点ではまだ、「熟睡に対するモチベーションが上がった」だけだ。
私はその日から、入浴中の灯りをキャンドルだけにしてみたり、寝る前にヨガをしてみたり、枕元にアロマオイルを垂らしたりしてみた。
寝つきは少し良くなったが、寒暖差にはまだ勝てない。そんな私の努力が伝わったのか、ある日アプリの側からこんな提案があった。
「スリープサウンドを導入してみてはどうですか?」
スリープサウンドとは、アプリに実装されているリラックス系音楽(?)のことで、雨音とか焚き火の音とかハープ音楽みたいのもある。
どれがどう効くか分からないまま導入してみたら、これが、びっくりするほど効果てきめん。翌日には最高の睡眠記録を出すことができた。グラフが地を這うような波形をしているが、体感では、もっっっと深く眠れた感じだった。
梅雨が明ければ夏本番。
今度は冷房の温度管理との戦いになるのか、はたまた冷房自体つけられない夏になるのかもしれないけど、睡眠アプリの実力は今後も検証していきたい。