5月に帰省したときに、母とまた喧嘩をした。
会うたびに大体するので、それ自体に驚きはない。しかし、パターンはいつも同じで、そろそろ卒業したい感じがする。
そんなときのことだった。スクーで、「キムゼミ」が始まったのは。
キムゼミとは、作家のジョン・キム先生が主宰する大学のゼミで、私は5年ぐらい前に、その「社会人向け」を受講したことがある。
先生の言葉は1つひとつが優しく(キザでもある)、病んでいた私に響きまくり。そんな自分も懐かしく、スクーの動画を見たけれど、母と喧嘩中の今回も、響くものがしっかりあった。
それは、「愛の存在、愛の表現」という言葉である。
喧嘩なんかするとき、そこには大体、「愛のすれ違い」があるのだそうだ。
娘への愛があるから、それを表現する母。しかし表現が下手過ぎて、耳がもげるほど痛い小言である。愛など当然伝わらないから、傷ついた娘は反発する。そして母は「愛の存在」そのものを、否定されたと感じてしまう。
要は、表現がどんなに下手だとしても、そこには愛があるのである。「表現」という「表面」だけを見て、「存在」という「根底」を想像しない、私に問題があったのだ。
そんな学びを得て数日、母の誕生日が近づくのを、感じていた6月の某日。
今度は兄から連絡が来た。兄とは1月に似たような感じで喧嘩をして、音信不通となっていた。母が(兄の住む岡山に)遊びに来るから、私も来いということだ。
別に岡山に興味はないが、渡りに船と有休を取った。まぁなんというか、「導き」を感じたのだ。
私はキム先生と違うので、愛とか感謝とか、美しい言葉はいえない。だけど、喧嘩してそのままはいけないし、壊れた縁を結び直すチャンスがあるなら、そこには意地もプライドもなく、乗っかるほうが正しい。
そんなこんなで、今日は母の誕生日。穏便に迎えられて良かった。