コミュニケーションをあきらめない

私の同僚で、「コミュニケーションをあきらめない」人がいる。

自分の意見を主張する。上司だろうと、後輩だろうと、伝わらなければ伝わるまで、伝わる方法で伝え続ける。

といっても、人の意見を聞かないわけではなく、納得すれば協力するし、だからこそだろう、納得するまで質問する。しつこいぐらい。

それに比べて私は、そこまで頑張る根気がない。「コミュニケーションをあきらめている」つもりはないけど、そこまで主張はしないほうだ。

人に合わせてもらうより、自分が合わせたほうが早い、という感覚が強いのだろう。長尺のコミュニケーションを取ってまで自分を通すことに対して、期待するところが小さい。

さて、今日書きたいのは会社のことではない。世の中にはこのように、コミュニケーションをあきらめない人とあきらめやすい人がいるとして、そのスタンスとは一体、どこで分かれるかということだ。

答えは、「相互理解を通して、物事を実現してきた経験の数」だ。たぶん。

私は子供の頃から、母親に理解されることが少なかった。何か主張すれば意味が分からないといわれ、それが親心の裏返しだということに最近やっと気づいたが、要は親心の理解もなければ、子心の理解もないまま、「どうせ伝わらない」というスタンスや、「主張するぐらいなら黙ってやったほうが早い」という行動パターンだけがすくすくと育っていったのだ。

とはいえそんな私にも、転機はちょいちょい訪れた。20才でバックパッカーをしたときに始まり、来年は40才になるという今まで、立場の異なる人とコミュニケーションを通して相互理解ができたとき、そして行動を共にしたとき、独りでちまちま動くのとは違う、素敵な世界を見ることができた。

コミュニケーションが苦手なくせに、そういうことは希求している。そしてたまに成功するときがある。

そんなとき、必ずそばにいてくれたのは、私とのコミュニケーションをあきらめないでくれた人たちだ。たぶん1、2センチしか開いてない心のドアを、そーっと入ってきてくれた人たち。私の数少ない「相互理解を通して、物事を実現してきた経験」は、今考えれば全てこういう人たちのおかげだった。

というわけで、「コミュニケーションをあきらめない」ってことは、ことほどさように深い。

まずは互いに接触するスタンスが重要。それを妨げる違和感があるなら、いちいち伝えるスタンスが重要。それが平行線になるときは、立場の違いを考えてみるスタンスが重要。

ここまでして初めて「相互理解を通して、物事を実現してきた経験の数」が積まれるのであり、「みんなで見られる素敵な世界」があるのだろう。

 

 

 

あー…長い。(自分で書いといて違和感)