ゆかこの部屋

大きな1個の幸せではなく、身近な小さな幸せを100万個ぐらい集めています

自分らしく生きるって

前職の同僚Nちゃんが、「自分らしく生きたい人」向けのカフェを作るらしい(リクルートっぽいな~)。

そこで「自分らしく生きている人」として、私をインタビューしてくれると。

 

聞いた当初は、

わわわ、私ですか?何の成果も出してませんけど?何なら辞めようとしてますけど?

と躊躇もしたが、確かに、「自分らしさ」だけは追求してきた。いや、追求というより、浸み出てくるものに翻弄されてきた、が正しいだろうか。

とにかくそういうことで、2時間近くお喋り。

「分かりにくい」で有名な私の話を、彼女がどう編集するかは分からないけど、自分なりに整理された点もあるので、メモしておきます。

 

まず前提として

私が今、丹波篠山でクラフトビールを立ち上げているのは、「田舎に住みたい」が目的で、ビールはその手段だった。

 

田舎に住みたい願望の始まりは、3年ぐらい前だったか。

私は異常気象とか過労死とか格差社会とか、いわゆる社会問題を(少しは)考える人で、資本主義の片棒といえる「大企業」で働くことにも、どことなく違和感を抱いていた。

「田舎」という方向性の前に「社会への違和感」があったのだ。

きっかけは、自分の世界の外と内を見たこと

大企業で働きながら、その違和感に気づけたのは、ある習慣のおかげだった。

私はNETでニュース記事を見ては、それに対する自分の意見を簡潔にメモする習慣があった。元々はリクナビ(当時の仕事)のためにしていたことだが、これが面白かったのだ。

自分が何を素晴らしいと感じ、何をバカバカしいと感じるか。記者の視点とは一致しないこともあり、これが「自分らしさ」だと気づいた。

情報収集という「外を見る」行動を通して、自分の違和感という「内を見る」結果となったのだ。

決定打は、都会と田舎を同時に見たこと

違和感に気づいてしまったら、行動しないではいられない。

私は「田舎の方が(心身も社会も)健やかそうだ」という直感に導かれ、また国家予算の恩恵に預かるため、「移住体験ツアー」に次々と参加した。

回を重ねるたびに、田舎に癒されるたびに、強くなるのは都会への違和感。

ちょうどその頃、具合が悪くなったこともあり、田舎に住みたい願望はより強化されることとなった。

そして、今したいこと

その後、クラフトビールという手段を見つけ丹波篠山に来たが、残念ながら「田舎で『健やかに』暮らす」は実現できなかった。

しかし、極端に苦労して、能力の限界も見たことで、「欲しいもの」はより精査された。

 

私が今したいことは①暮らしを楽しむことと、②見たことのない世界を見ることだ。あと、親しい人少々と。

キャリアに一貫性のない私だが、実はこのキーワードさえあれば、趣味、志向、これまでの人生、ほぼ全てに説明がつく。何故ならこの両者は、私が進学したときも、社会人になったときも、挫折したときも、転機を迎えたときも、基本的には常に希求してきたことだから。

しかしこの世の中は、「どう暮らしたいか」ではなく、「どう働きたいか」で選ばなければならない。重きは仕事に置かれている。「仕事が目的、暮らしが手段」になってしまっているのだ。

さまざまな職を転々としてきた私だが、やっと「暮らしが目的」を自覚できた。

Nちゃんからの質問

Nちゃんから「方向性が定まったとして、それをどう実現するのか?あれこれ不安にならないのか?」と聞かれた。

なるほど。「考える」というフェーズの次に「動く」というフェーズがあるのか。

確かに私は「動く」スピード(②)が異常だが、しかし立ち止まらないわけではない。きちっと不安にはなるし、失敗だってしてきた。

だけど、「最後は何とかなる」というか、「死にはしない」自信だけはあって(というか日本で暮らす日本人は簡単に「死にはしない」)、だから「動ける」のだろう。そのスピードを上げるために、次のような行動を取っている、気がする。

背中を押してくれそうな人と付き合う

まず忘れてならないのは「実行するのは自分」ということだ。

大きな決断を前にすると、背中を押してくれる人、心配してくれる人、さまざまな人が現れてはさまざまな意見を口にする。しかし、実行するのはその人たちではない。

実行するのが自分である以上、残念ながら、自分の能力以上の結果は出ない。だとすれば、自分が頑張れるよう、背中を押してくれる意見、元気になれそうな意見だけを聞き入れれば良いのだ。

「成功/失敗」は人のモノサシであって、本人的には「できる努力をしたか」しか残らない気がする。

悲しいときこそ嬉しいを数える

もう1つは「実行中」の心構え。

これは私が篠山でどん底だったときに編み出した技だが、悲しいときこそ、冷静に1日をふりかえってみるのだ。

悲しい日というのは、恐らく自分にとって「大きめの」悲しいことがあった日だろう。しかし「小さめの」嬉しいことだっていくつかはあったはず。

例えば私は今日、追突事故(大きめの悲しいこと)を起こしたけど、そこそこおいしいポテトフライも食べた(小さめの嬉しいこと)。

追突事故=「大きい」、ポテトフライ=「小さい」と評価しているのは、実は自分の心である。そのせいでクヨクヨするぐらいだったら、嬉しいことに目を向け、それを大きく評価すれば良いじゃないか。覆水盆に返らないんだし。

 

というわけで、殊勝なことを書いてみたけど、明日からはまた現実。

自分らしく、暮らしに重きを置き、ゴキゲンになるために心をコントロールしよう!!