ひょんなことから家族旅行。
姫路で城を鑑賞→赤穂で牡蠣を堪能→明石で商店街を楽しみ→京都で街を散策した。
天候に恵まれ、スケジュールは滞りなく、見るもの全部素晴らしく、食べるもの全ておいしかった。
「ひょんなことから」というのは、予定された旅行ではなかったから。
そもそもは、私が篠山に置いてきた荷物(ワンダーコアなど)を、岡山在住の兄に返すことが目的だった。
が、何故か母まで来ることになり、「旅行」の形になったのだ。
姫路に行きたかったわけでも、明石に行きたかったわけでもない。けれど、今やWHY(何のためにするか)よりWHO(誰とするか)。
昨年は、兄が大病、私が失業、したせいか、「この人たちに会えるのもあと何回なんだろう」と、意識しているのは私だけではないのかもしれない。
最近ある本に、こんなことが書いてあった。
(仏教の世界では)「私」という存在は幻想に過ぎない。私は「空」としてある。そのものに実体があるわけではないけれど、あらゆるものとのつながりの中にある。
私たち個々の存在は、網の結び目のようなものだ。
(網の)ひもを縁と見るならば、一人ひとりの存在は、個々が独立した実体としてあるわけではなく、縁と縁の結び目に仮に成り立っている。
抽象的な引用で恐縮だが、要は「私」なんてないんだから、「私の欲」だって幻想だ。煩悩だ。全ては「縁」の中で成り立っているのだ、と続く。
「私とは何か」なんて、考えたって意味がない。人と人との縁の中で、結び目としてどうゆらゆら揺れていくか、それさえ考えていれば充分なのだと解釈した。
さて、家族旅行に戻って、この人たちと出会ったのは、私にとって大きな縁だ。
幼い頃から生かされて、40才になった今もなお、この人たちに生かされている。ただ娘として、妹として生まれたというだけで。
家族旅行だからって、大した話をするわけではない。私が漫画を読んでいる横で、母がゲームをしていることだってある。
けれど互いに、困ったときは助け、何となくは見守り合い、生かし生かされている実感がある。そういう時間は「緩い」のだろう、案外。
「理想の私」をストイックに目指すのではない。縁の中でゆらゆら揺れる、結び目としての「私」とは、こういうことかと少し思った。