近況報告:わざわざ会うこと、受け容れること

7月13日。雨。

週に1冊は本を読むようにしていて、今週はこれを読むことになった。

 

「まえがき」の1行目からド共感。

近代社会は知識中心に動いてきた。「知識は力なり」は、それを予告することばである。知識尊重の思想が近代教育をおこした。学校は、知識の伝授に多忙で、生活が大切であることを忘れたか、それを考えようとはしなかった。

そうそうそう。

私も最近、一番大切なのは生活。そのために良い社会が要るのであり、そのために良い教育が要るのだ。

ということを感じていたので、良い本を選べたことに朝から気分が良くなった。

 

最初のテーマは、「日記」。

日記などあってもなくてもいい多くのことのひとつ

といいながら、6、70年も日記を書いているという筆者。結局、日記は「1日の決算」であり、「忘れるために」書くものだという結論に至ったらしい。

 

これを読んで数時間後、たまたま目にした壇蜜のインタビューにも、同じことが書いてあった。

私の場合、日記は物事を忘れるために書くんです。嬉しいことも、そうじゃないことも、書いてしまえば次の日まで持ち越さずに済みますから。たとえ嬉しかったことでも、その感情をずっと抱えたままだと、生きていくうえで足かせになってしまうことがある。だから、1回リセットして自分をまっさらな状態に戻したい。

fujinkoron.jp

 

なるほど。「忘れるために、書く」のか。

ところが、私は自慢できるほど忘れっぽいので、書こうが書くまいがすぐに忘れてしまう。したがって、忘れるために書く必要などない。どちらかといえば、「後から思い出す」ために書いているような気がする。

 

「後から思い出したいこと」といえば、先日、こんなことがあった。

言語化するのが難しい。けれど、とても温かくて、何度でもこんな夜を過ごしたいと思った夜だ。

それは7月9日。先日書いたバーのオープン準備をしていたときのこと。 

tokyo100k.hatenablog.jp

その場にいたのは、新店長のNさん(50代)、オーナーのRちゃん(40代)、元シェアメイトのTちゃん(20代)と、私(40代)の4名。

準備をしていたのはNさんとRちゃんで、Tちゃんと私はただ喋っていただけだけど、何だろう、誰かが頑張っている姿を、ほかの誰かが見るともなく見ていたり、誰かが真剣に喋っているのと、ほかの誰かが聞くともなく聞いていたり、大したことがあったわけではないけど、とても温かい時間に感じた。そんなことがあった。

それぞれの存在をそれぞれが味わっているというのか、真面目な瞬間もあればそうでない瞬間もあったけど、誰かが何かを仕切るするでもなく、ただそれぞれが何かをしている。そしてそれを、とにかく誰かが受け容れている。


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私はこの「受け容れる」というのを、「容」で表記するのが好きだ。それは「容器」に入るようにすっぽりと、包まれるような守られるような感覚があるから。 

私たちは、れっきとした他人なのに、たまたま同じ時期に同じ地域に住んでいただけの他人なのに、それだけ温かい時間を共にできることが嬉しかったし、これこそ私の目指す「共助」の形だと思った。

 

久しぶりに会ったので、話はやはりコロナに及ぶ。 

コロナによって、「こういう時間」が奪われたのだと。

こういう時間とはどういう時間か。オンラインでも話はできるじゃないか。なのに何故、わざわざ会わなきゃいけないのか。

未だに言語化できないけど、オンラインは目的ありきというか、テーマありきというか、五感でいえば視覚と聴覚は満たされるかもしれないが、それ以外の伝えるものを伝えることは難しい。

「ただそこにいる」ということを、伝え、受け容れるのは難しいのかもしれない。