あらすじは、広島育ちの主人公「すず」が、軍港のある街・呉に嫁ぎ、戦争を真隣に感じながらも、日々の暮らしを紡いでいくというもの。
戦争×アニメといえば、『火垂るの墓』や『はだしのゲン』が有名だが、その悲惨さを直接描いたこれらに対して、『この世界の片隅に』は、間接的に描くことで、逆にリアルに伝えている。そんな感想を得た。
「間接的。だからリアル」とは、どういうことか。
それは、今ある暮らしが失われる、ということだ。
主人公のすずは、絵を描くのが得意。
それは技能として得意なだけでなく、世界を美しく切り取るのが得意という意味で、日々、戦況が悪化する中においても、暮らしの中のキラキラ光る部分に目を向け、描こうとする姿が何度となく映し出されている。
現代でいえばちょうど、instagramが得意な人、みたいなものだろうか。美しい絵を描いていたすずの心が、戦況の悪化とともに歪んでいくのが、その絵を通して伝わってくる。
「間接的。だからリアル」とは、そういうこと。
原爆は誰にでも落ちないが、「暮らし」そのものは誰にでもあり、それを奪われるということも、誰にでもあり得る。
身近という意味で、リアルなのだ。
私は今年の夏、帰省ができなかった。
戦争に比べれば何でもないが、コロナとそれに対する行政の無策のせいで、当たり前だった暮らしが、一つ奪われたのだ。
社会にろくな政治がなければ、暮らしは少しずつ悪くなる。
すずの暮らしだって、突然奪われたわけじゃない。少しずつ少しずつ奪われて、気づいたら焼け野原になっていた。
そして初めて、為政者の責任を問うたのだ。
敗戦を告げる玉音放送の後も、しばらくの間映画は続く。
そこに映し出されたのは、暮らしを続ける人々の姿だ。
とにかく、今日を食べる。負けても、暮らしは続いていく。幸せかどうかなんて、考える余裕はなかっただろう。
そうやって、脈々と続けられた暮らしの先に現在があるのであって、そうやって積み上げられたものを失うってことに、例えば私一人が、私一人の暮らしを奪われるだけではないものを感じた。