ここ最近、情報源が「統一教会」で埋め尽くされている。
コロナ10万人でもなければ、ウクライナ侵攻でもない。最初は「衝撃的」だったニュースでも、慣れれば日常になっていくものだと感じる反面、この「慣れ」がまた恐ろしく、次の時代をもっと衝撃的にしてしまうような気がしている。
今の違和感は今の違和感として、書き残しておかなければならない。
私が衝撃を受けているのは、統一教会と政治家との間に長年の癒着がありました、という話だ。
中学校に入ると「オウム」の時代が来て、「地下鉄サリン事件」があったのは、その卒業式の日だった(95年)。家に帰ると母が、TVを前に騒いでいたのを覚えている。
そして、首謀者であるオウムの幹部たちは、平成最後の年末に死刑を執行された。「カルトは始末された」感が漂っていたその裏で、統一教会は「捜査されないために」政治家との関係をこつこつ築きあげていた、という顛末。
一方、山上容疑者の人生がまた、衝撃的過ぎて絶句した。
京大卒の父と公立大卒の母の間に生まれるも、父の自殺や兄の大病を苦に母が入信。多額の寄付で家は破産。自身は自衛隊に入った後に自殺を図るが、目的は兄と妹のために死亡保険金を残すことだったらしい。
この人生、何?????
あれから30年余り、山上容疑者を含む多くの被害者が放置されてきた。広く報道されたわけではないし、市民には知る術もなかったけれど、同世代に生きてきた一人として、何も感じないといったら大嘘になる。こんなことが、現実にあって良いのかと。
日本の法律では「自己救済」が禁止されている。例えば自分の身内が酷い目に遭っても、自分で仕返しをしてはいけません、という原則だ。
その前提にあるのが、司法や警察といった「国家権力」による救済だ。ただ、今まで見てきた通り、それが機能していないとしたら?
だから殺して良いということではなく、権力側の機能回復を急がなければ。まして権力者自身が、巨悪に加担している場合ではない。
今の日本って、「大きな癌(オウム)を切除したので安心していたが、忘れた頃に再検査してみたら、体の隅々まで転移していた(統一教会)」みたいな感じだろうか。
こんな患者に未来はないだろうが、これを「国」として住む国民には未来がある。
「自分にできそうなこと」を考えてみると、
・情報を取捨選択する
・違和感を大切にする
・目の前の人に優しくする
・とはいえ、逃げるときは逃げる
・違和感を大切にする
・目の前の人に優しくする
・とはいえ、逃げるときは逃げる
ぐらいしか考えられなくて本当に嫌になるけど、そもそも権力と戦うってとき、市民の側には「数の優勢」ぐらいしかないのだ。
だから、「情報を共有する」とか「違和感を口にする」というところから、まずは始めるしかないのだと思う。次に来る時代が、ますます衝撃的にならないために。