食いしん坊、聞かん坊、ときどき裸ん坊。
1才4ヶ月を迎えた、我が子である。身長81センチちょっと、体重10キロぴったりまで育った。
その生態はというと、
食いしん坊…バナナとトマトが大好きで、食べ物を見れば欲しがる。よく食うなぁと思っていたら、2ヶ月で4センチも大きくなってしまった。私(172センチ)と同じく、大女の道を歩むのだなぁ…。
聞かん坊…自我の芽生えなのか、各種要求が凄まじい。
冷蔵庫に貼りついたり(バナナをよこせ)、テレビのリモコンを渡してきたり(「おかあさんといっしょ」か「いないいないばあ」を見せろ)。この頃は自分で食べたがるようにもなり、スプーンで与えようとすると、首を横に「いやいや」。
要求に答えなければ、大声で泣いて実力行使。ほとほと手を焼いているが、「これも成長の証」らしい。
裸ん坊…一番謎なのが、すぐに服を脱ぎたがること。気づけば裸になっていること、ときどき(???)。
育児書を開き、小さい子どもの謎行動は、その「動き」ができるようになったから、繰り返し練習したいだけ、と知ったが、ことほどさように育児とは、「知る」ことの連続である。
子育てと「利他」
「知る」といえば、育児を通して知ったのは、「自分自身もこうやって、親に育てられたのだ」ということである。
例えばおむつを替えるとき、例えばごはんをあげるとき、繰り返されるのは毎日毎日、同じ行動ばかり。
こんなに拭くか?というぐらい、毎日お尻を拭いているし、毎日ごはんをあげている。一生忘れえぬほどに。
と・こ・ろ・が!
自分も赤ちゃんのとき、親にそういう風にしてもらったってことは、一つも覚えていないのだ。「え、ママ本当に、私のお尻拭いてたの?」っていうぐらい。「拭いてたよ!」とキレられそうだ。
中島岳志先生の本に、以下のようにあったのを思い出した(意訳)。
「利他」は後からやってくる。
誰かが、利他的な心で自分のためにしてくれたことというのは、そのときはありがたみが分からない。何年も経ったときに初めて、「あのとき、あの人があれをしてくれたから…」というときが来る。
と。
私にとってはまさに育児がこれだ。自分が親になって、来る日も来る日も子どものお尻を拭いて初めて、自分のお尻を拭いてくれた母の想いに共感し、ありがたく感じることができたのだった。
今月の一冊
一冊といいながら3冊紹介しますが、いずれも!勉強になりました。
これら本を読む前の私は、子どもの行動にイライラし、子どもとの格闘に疲れ果て、ごはんを作るのが面倒になり(これは前からだけど)、そのくせ、当初思い描いていた子育て…栄養価の高いごはんを食べさせたり、褒めて伸ばす教育をしたりといったこと…ができていない自分にモヤモヤしていた。「こんなはずじゃなかったのに!」と。
で、読んで、書いてあることを試していくと、まぁ何というか、子どものことが前よりかわいく感じられるようになってきた…ような気がする。
知識が増え、方法論に迷わなくなったこととで、子どもとの関係性が改善したのだろう。ただの暴れん坊にしか見えていなかったが、実は頑張り屋だったのだ。
もちろん、イライラの全てが消えるわけではないが、子どもの行動の動機が分からない!…については前者の2冊、「毎日のごはん、何食べさせれば良いの?」については、最後の1冊がとーっても良かった。
育児とは、来る日も来る日も勉強だ。