ゆかこの部屋

小さな幸せを集めて貯めるblog

バカなことを大真面目にやる意味

会社を辞めると決めて以来、「やり残したことは全部やる」を標榜している私。悔いなくさっぱり去りたいからだ。

さまざまな「やり残し」がある中で、重要視しているのは「宴会の演出」である。

と書くと、遊びたいだけに見えるのか、真面目な人にはバカにされるが、この際はっきり書かせてもらおう。バカなことをバカにすることほどバカなことはない。バカだからこそ、大真面目にやる価値があるのだ。

と、いうわけで、昨日の宴会は頑張った。

オリジナルの「ズームイン朝」を撮ったり、桃太郎を描いたり、管理職たちの寸劇を作ったり、見た人でなければ分からないだろうが、それはもう盛り上がった。楽しそうな会場を眺めながら、呑むビールは最高に旨い。

さて、こんな私が宴会の演出で、大切にしていることは2つ。

1つは前述の通り、「バカなことを大真面目にやる」こと。

ズームインだろうと桃太郎だろうと寸劇だろうと、本気でやることが大切だ。

何故なら、「バカなこと」は人の間にある垣根をなくし、「本気」は人の心を結びつけるから。要は、人の心を1つにしたければ、バカなことを大真面目にやる、これが最も簡単で早い。

そしてもう1つ大切にしていること。それは「自分たちを素材にする」こと。

今回は全国津々浦々からメンバーが集まったので、ご当地感の演出、そして寸劇ではそれぞれの人となりを表現するのにこだわった。

これによって、普段は伝わりづらい1人ひとりのキャラクターだったり、その背景にあるご当地のことが分かり、それぞれの違いをこそ尊重しようという空気が育つ(はず)。

宴会とは、ただ呑んで酔って盛り上がればいいのではなく、その準備から閉演まで全ての時間に、「懇親」のための重要なエッセンスが詰まっているのである!!!

…と、偉そうなことを書いているが、本当は感謝しかない。

プロジェクトを仕切ってくれたKさん、映像を作ってくれたYちゃん、リハーサルの3倍は輝いていた司会の2人始め実行部隊の皆さんと、会場で楽しんでくれた皆さん、

そして、今回書いたような思想を私に叩き込んでくれた、2009年〜2011年ごろに同僚だった皆さんと上司。

皆さんのおかげで私はあります。ありがとうございました。

農的暮らしから学ぶ -後編-

中島デコさんと岡本よりたかさんのトークイベントを聞いてきた。

畑はやめても学びはやめたくないと、あれこれ探していたところに、こんなメディアを見つけたのだ。

thecampus.jp

中島デコさんは、私も行った「ブラウンズフィールド」の主宰者で、

brownsfield-jp.com

岡本よりたかさんは、自然栽培の伝道師として有名な人(らしい)。

www.soramizu.com 

ここで何が語られたかは割愛しちゃうけど、

なんというか、この1年、畑をやったり田舎ツアーに参加したりする中で考えてきたことが、1本の線になった気がする。

私は、畑がやりたかったんでも、田舎に住みたかったんでもなかった。

自然に、健康に暮らしたかったのだ。

 

きっかけは、岡本さんの言葉だった。

自然栽培の作物には生命力があり、食べるだけで体が強くなる。

自然とは、ほったらかすということ。その反対は、人が手を入れコントロールするということ。

「自然=ほったらかす=強い」は作物だけでなく全ての法則で、今、西日本が豪雨に襲われているけれど、災害が起きている土地はほとんど、人の手が入り過ぎてしまっている。

自然のままにほったらかされた土地は、(岡本さんが住んでいるところも含め)強くて壊れることがない。

 

このブログを読んでくれている人なら分かると思うが、私が畑を始めたり、田舎ツアーに参加したりするようになったのは、会社の仕事が辛くなったことが原因だった。

あれは1年ちょっと前。

急に難しい要求が増え、どんなに効率よく片付けても、仕事の終わらない日々が続いた。

私を含め耐え抜いた人もいれば、辞めたり倒れたりした人もいたけど、身を守れば完遂できず、完遂すれば身体を壊す。そんな仕事に、「不自然」さを感じるようになった。

岡本さんの言葉を借りれば、生きる=自然であり、壊れる=不自然である。自分を壊してまでする仕事に、意味なんかあるだろうか。

違和感を感じたら、全てが気になるようになって、

“広告”という「人と人との出会いを作る」仕事が、「情報で人をコントロールする」不自然な仕事に見えてきた。

そして見つかったのが、病気(予備軍)である。

あくまで予備軍だし、畑や田舎に通うことで癒されてはいたものの、今考えればもう、度重なる不自然からの病気に、心が折れていたんだ、私は。

 

というわけで、もしかしたら本当に今だけの感覚かもしれないけど、長い旅が終わりつつあるような気がする。

感じていた違和感は、責任感や使命感という姿をしたものによって、自分で自分をコントロールしようとしていたこと。自分を壊すような環境に自分を置いていたこと。誰でもない、自分の選択だ。

だから今日からは、新しい「土」を探す。

それが何かは分からないけど、もうどんな土にも合うほど若くはないんだし、自分に合う土は自分で見つけなければならない。

農的暮らしから学ぶ -前編-

1年通った「シェア畑」は、8月末で解約することになった。

理由は遠いから。30分の農作業のために、往復2時間通うのが辛い。

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夏の畑では、キュウリ、トマト、オクラなど、旬の野菜が育ち放題である。
育つのは野菜だけでなく、雑草だって伸び放題。全身蚊に食われながらの草刈りは、正直いって辛い。
だけど、あと1ヶ月半でお別れとなると、こんな格闘すらも名残惜しく、帰り際に自然と「ありがとう」が口をついて出てくる。

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畑からは本当に多くのことを学ばせてもらった。

1つは、土をきちんと作って、ときどきメンテナンスしてあげれば、後は自然の力によって、大きくたわわに実るってこと。

もともと土いじりは好きだったけど、プランターとはまるで違っていた。小さい畑ながら、大地ってものの力を感じた。 

tokyo100k.hatenablog.jp

もう1つは、自分で育てた野菜は、なかなか形が揃わないってこと。

キュウリにしてもイチゴにしても、全てがいびつで個性的で、普段、スーパーで目にする野菜は本当に同じ野菜なのかってぐらい。  

ま、私の育て方が悪かったのかもしれないけど、自然ってこういうことなんだろうと。形をきれいに揃えるには、人工的で人為的な作業が必要なんだろうと解釈した。

tokyo100k.hatenablog.jp

こういうことを、すぐ人間に当てはめるのは悪い癖だが、人間も一人ひとりが、いびつで個性的な存在である。

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としたら、人工的で人為的な枠にはめるより、自然に生きるほうが、大きくたわわに実るのではないだろうか。

必要なのは、その人に合った土(環境)に植えてあげることと、ときどきのメンテナンスを施すこと。それさえあれば、キュウリはキュウリになっていくのだ。

(続く)

平成への偲びに代えて

あの事件の死刑が執行された。

私の周り及びSNSで、これを話題にしてる人は一人もいなかったけど、私は気になって気になって、AERAの記事とか全部読んでしまった。

 

というのも、あの事件が起きたその日、私は中学の卒業式で、卒業式そのものよりこの事件のほうが印象に残ってしまっていて、

その後、私の世代だと、2年後に神戸のサカキバラ事件が起き、その翌年に和歌山のカレー事件が起き、その3年後にニューヨークの9.11がありって、

思春期の多感な時期に、信じられないような事件がたくさん起きて、

多感な年頃なりに(頼まれもしないのに)一生懸命葛藤したことを、思い出してしまうのだ。

 

当時も今も、葛藤の末に行き着くのは、こういう凶行を起こす人たちが、生まれながらに凶人だったわけではないってこと。いや、ない「はず」だっていう信念。「凶人」というレッテルが、孤独が、人を本物の凶人にしていく、というか。

勿論、凶行を擁護する意図はないけど、凶行ってのは、ある日突然起きるわけではなくて、ちょっとしたボタンのかけ違いが、ちょっとちょっとという内に大きくなって、とんでもない凶行に繋がっていく。そんなことを、思春期なりに考えていた気がする。

 

今回の死刑執行は「平成のうちに」とかいう事情で行われたものらしい。裏で重要法案とか決まってるかもしれないけど、表向きはそうらしい。

ただね、この教団って、最終的には凶悪犯罪集団と化したわけだけど、どうしてそれが起きたのかっていう社会病理的な部分、その本質自体は、社会から消えてなくなってないような気がするのだ。本人たちが消えただけで。

もし償う気があったなら、それを明らかにして欲しかった。たとえ小さな示唆だとしても、未来に残して欲しかった。

そういう意味で「死んで償う」は、最高刑じゃないのかもしれないし、平成の次の時代は、こんなことが起こらないようにしたい。

五感を満たす休日 -和菓子作り-

初めての「和菓子作り」を習ってきました。

教えてくださったのは、文京区本郷にある和菓子店「喜久月」さん。

作ったのは夏にふさわしい、水ようかん、くず桜、練り切りの朝顔に団扇と、やー、茶会でも開かないと食べきれそうにありません!

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5人いれば5通りの朝顔

これら4品作るのにどれほどの労力がかかったか。実はとっても楽ちん。本気出せば1時間でできます!

材料も製法もシンプルだし、わざわざ高いの買わなくたって、粘土みたいにこねこねと、楽しく家で作れるじゃん!

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団扇に骨の部分を刻印したところ

そんな気がする反面、グラム数とか分数(ふんすう)とかレシピに書き表せることと、熟練した職人でなければ分からない「勘どころ」とがあるのだそうで、シンプルゆえに奥の深い世界観を感じました。

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くず桜の餡に気泡を入れて涼しげに

さて、私と和菓子との出会いは、今から20年以上前、高校の茶道部に入ったときでした。

部の当番で和菓子屋さんに行くたび、棚に並ぶは四季の風物。

まずは目で楽しみ、次いで抹茶との組み合わせを楽しむ。それだけでも贅沢だというのに、今回はそこに「作る」楽しみが加わりました。

「四季がある」という事実に対して、作って、見て、食べる。「四季を味わい尽くす」ってこういうこと。その余裕をこそ「豊かさ」と呼ぶのではないでしょうか。

四季のある国、それを楽しむ国、日本に生まれたことすらも、嬉しく感じるときでした。

2018年7月の行動計画

週末の宮崎行がキャンセルになった。フライトが欠航になったのだ。

残念は残念だけど、半分ちょっと安心したってのもあって、

今週はめちゃくちゃ疲れていたし、そもそも参加を決めたとき、シェアハウス騒動でまともな判断能力なかったし、それでも決断できたのはボーナス支給で調子乗ってたからだし、

明日本当に行くのかー、と考えていたところに、欠航の知らせである。関係各位には悪いけど、ちょっとだけラッキーだった。

さて、2018年も半分が過ぎた。

6月のトピックスは、

・会社で反乱を起こしたこと
・キャリアカウンセラーを目指すことにしたこと

人間覚悟を決めたら、大胆になれるもんだ。そして運よく、全てが割と好転している。

と、ウェイウェイいいたいところだが、悪いトピックスも1点。

・子宮頚がんの半年後検診で、症状が良くなってなかったこと(リスクは少ないが異常ではある)

半年かけてベンチマークした「理想」と、「現実」とのギャップに怒り狂って、自らそれをたぐり寄せようとした6月。しかし体は、小さな悲鳴をあげていた、と。

行動は大切だけど、体も大切にしないと、という今を、宮崎のキャンセルが象徴している気がする。墓参りの効果ではないだろうが。

というわけで、7月の方針と計画。

▼前提

・9月下旬~12月上旬まではGCDFで勉強漬けになる

▼方針

・全て楽しめる範囲で頑張る(疲れを感じたら止める)
・田舎ツアーは月に1回まで
・ワークショップ参加は週に1回まで
・浮いた時間を読書に投資
・シェアハウスとワークショップ主宰は「コミュニティとスキルシェア」を目的にする
・副業のライターとカウンセラー(とスナック)は、「楽しく働く人を増やす」を目的にする
・免疫力UPを目的に「休む日」を作る(NEW)

▼計画

・7/1 和菓子作りワークショップ⇒○
・7/7 キチのガレージセール⇒○
・7/9 農家さんのトークセッション⇒○
・7/10 上半期のふりかえりワークショップ
・7/14-16 むらコト奈良ツアー⇒○
・7/24 つながる場づくりワークショップ⇒○
・7/26 あたラボ
・7/26 他人視点で「自分」を可視化するポートフォリオ作成ワークショップ
・7/29 シェアする暮らしの言いまわしドリル

ほか未定。

目的のないところに意味がある

週末の旅行では、香川の直島も訪ねました。

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直島といえば、瀬戸内国際芸術祭や草間彌生で有名ですが、

本当はアートなんかより、海が素晴らしいんです、ここは。

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瀬戸内の海は、穏やかな海。

ただ立って見ているだけで、妙に心が満たされる。

海なんか見たって、何の役にも立たないのに。それでも今、成立している、この瞬間はなんなんだ。

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そんなことを考えていたら、「目的」に疲れていた自分自身に気づきました。

都会では、来る日も来る日も、タスクに追われる毎日。

「何のため?」と問い、目的が曖昧なものは捨てなければならない毎日。

効率的でなくたって、何の役にも立たなくたって、「ただ、好き」ということを、許されにくい毎日。

だけど、究極の目的って、好きなことをして、心を満たすことじゃないのでしょうか。

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頭が真っ白だって良い。ときに、馬鹿なことをしたって良い。

自分が楽しむこと抜きに、「目的」なんかないのです。

関係性は「関心」が作る

約30年ぶりに、母、兄、私とで家族旅行をしてきました。

目的は墓参@松江。

岡山に転勤した兄が、最近車を買ったので、それで行こうということに。松江以外はノープランでしたが、岡山、鳥取、香川を満喫することができました。

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倉敷(岡山)

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総社&高梁(岡山)

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大山(鳥取

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境港(鳥取

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米子(鳥取

本っ当にノープランだった割に、多くの素晴らしい景色だったり、写真こそないけど素晴らしい料理や温泉だったりに出会えて、これはひょっとしたら先祖の導きなんではないかと。墓参という行為を通して、先祖に「関心」を寄せたことで、得られた導きなんじゃないかと、感じることがありました。

なんというか、先祖だから「当たり前に」導いてくれるわけじゃないというか、「関心を払う」ことが大切なんだと感じたのです。

というのも、30年ぶりに旅行をした私たち3人(母娘はよくあるが、兄は久しぶりだった)。今は東京、静岡、岡山と離れて暮らしていますが、そこそこ仲が良いのは、母が「関心」を払い続けてくれているから。

「けんちゃんは××したがっている」とか「ゆかちゃんは今も昔も○○な子だ」とか、信憑性が低いときもあるにせよ、うざいぐらい関心を払ってくれるから、私たちは安心してくっついたり離れたりできるのです。これは血縁があるからといって、決して当たり前ではないこと。

つまり、30年ぶりでも旅行しようとか、それをそこそこ楽しめたとかいうのには、一定の関係性が必要で、その土台になっているのが、一定の関心なのだと。それには(ときにうざいほどの)不断の努力が必要なのだと、感じたわけです。

関心こそが、関係性を作る。

それは生きていようと死んでいようと、家族であろうとなかろうと関係なく、一朝一夕にはできないもの。それをショートカットすることはできないから、毎日続ける必要があると。

ウェットなのって苦手なんだけど、凄く大切なことに気づいてしまったっぽい、30年ぶりの家族旅行でした。

梅しごとと丁寧な暮らし

リトルトーキョーさんの「梅しごとワークショップ」に参加しました。

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甘く熟した梅の香りがぷ〜んと漂う中、それぞれ500gを、梅酒、梅シロップ、梅酵素シロップに。

アクを取り、ヘタを取り、水気を取って、せっせと仕込むこと1時間ぐらいでしょうか。想像よりも簡単で、これは家でもしたくなる!

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印象に残ったのは、梅1つ1つと「ちゃんと向き合う」ってこと。

大切なのは「効率」じゃなく、「丁寧に扱うこと」っていうんでしょうか。1つ1つが同じじゃないから、いちいちじっと、見る必要がある。

丁寧に仕込みさえすれば、後は時間が熟成させてくれるらしく、

普段、「15分で何個できるか」みたいな働きかたをしている私には、「必要な時間をかける」ってことが、とても新鮮だったのでした。

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さて、今回私が仕込んだのは「梅酒」。3ヶ月後には完成しますが、しかし「梅酵素シロップ」なら、梅と砂糖で1週間でできるらしい!

ということで、これを機会に自分でも作ってみるつもり。

そして丁寧且つ健康な暮らしってやつを、そろそろ自分に取り入れたい!

苦しみの正体は

ここ半年ぐらい、週明けのモチベーションが著しく低い。

「うぁーだりぃ」って、嘆いているうちに日が暮れる。私は決して不真面目ではないので、だるがっている自分に嘆いているのである。

そんな私はここ半年ぐらい、週末は自己啓発か、コミュニティか、関係人口をテーマに行動していて、「生身の人間の幸せ」について一生懸命考えている。

一方、平日はというと、

私は「企画職」なので、一応考えるのが仕事だけど、あるのは机上の空論ばかりで、生身の人間が不在っていうか、面倒な調整ばっか多い割に、「これをしたらどこの誰が幸せになるか」が見えない。

www.dailymotion.com

月曜から夜ふかし」の心理テストで、私の欲しいものは「約束」ということだった。

確かに、「これをしたら〇〇さんが幸せになります」っていう約束が欲しいような気はしていて、しかしないから、焦りにも近い感覚で行動しまくってる自分がいるのである。

「生身の人間の幸せ」について一生懸命考えている割に、「生身の人間である自分」がちっとも幸せになれていない感じが、虚しいのかもしれない。

自分が喜ぶことって、なんだろう。