平成最後の夏ってわけじゃないけど、「TOKYOの夏」をやり切った土曜日があった。
朝6時半に谷中で坐禅⇒8時に日本橋で相撲部屋見学⇒10時に人形町で参拝&大正浪漫の喫茶店で朝食⇒11時に秋葉原⇒16時に家で着物&習字⇒18時に谷中で盆踊り
って、鬼のスケジュールだったけど、これには理由があってだな。
家にホームステイしていたAndrewくん(from NY)が、TOKYO最後の1日だったので、これをどうにか盛り上げようと、シェアメイト一丸となり、上のプランをやり切ったのだ。
私の立場としては、(数日前に酔った勢いで)プラン提案してしまったため、坐禅&相撲&着物らへんで暗躍して、その責任を回収した…つもり。
猛暑の中、厳しいスケジュールだったけど、Andrewくんも「Perfect!」を連発していたから、満足してくれたんだろう、きっと。
AndrewくんとシェアメイトM嬢
さて、日本には「生き金/死に金」という言葉があるけれど、私はこの1日を通して、「生き時間/死に時間」という感覚を得た。
というのも、この日は勿論、楽しい1日だったけど、それ以上の何かを感じたのだ。
私の感覚だと、ただ遊んで楽しいだけでは生き時間とは呼べないというか、もう1段深いところに、人それぞれ「生き時間の条件」があるような気がする。
私の条件は「人に喜んでもらうために、自分の知恵と技能でフルコミットすること」だろうか。
ま、感情表現できないですし、金も力もないですし、それぐらいしか提供するものがない、ともいうけど、要するに自分はこれなら頑張れる!ってものを、発見できたということ。
M嬢が、あちこち連れ出すのを厭わないように、T嬢が、夜な夜なトークを厭わないように。って、分かりづらい文ですみません。
というわけで改めて、TOKYOの夏は楽しかったけど、決してそれだけじゃなく、Andrewくんやシェアメイトのみんなに、重要な示唆を与えてもらいました。
うーん、40近くなってもこんなことがあるもんだ。Thank you sooo much!!
(「余白」の意味は次回に続きます)