ゆかこの部屋

小さな幸せを集めて貯めるblog

磨く≒選択と集中

子供の頃、私は不思議に思っていた。

自分と同じ「子供」というのは、大体どの子も似たようなもんだが、一方「大人」は、いろーんな人がいるもんだ、と。

表現を変えれば、大人にはいわゆる「個性」があって、子供にはそれがない。もちろん実際はそんなことないだろうし、子供を取り巻く「学校」という共通の環境が、そんな風に思わせたんだろうけど、とにかく当時は、そんな風に考えていた。

 

18歳ぐらいの頃、私は個性的な人に会いたいと思っていた。

「まとも」を絵に描いたような親に育てられ、片親だし貧乏なのに、何だかんだまともに育ってしまい、一方で劇団員とかバンドマンとか、個性の塊のような人に憧れて、というよりコンプレックスを抱いていた。

で、そんな人の集まるのが東京だ、と思い、東京の大学を受験。。。

 

それでも結局、度胸のないのが私の性で、個性的な人に憧れても、直接関わるのは自信がない。そんなこんなで、割とまともに4年間を過ごし、自分の中で何も開花しないまま、就職。

 

その、鬱々としたエネルギーが爆発したのは、25歳の時だった。今考えれば何でもないような仕事のストレスをきっかけに、韓国で日本語を教えることになったのだ。「自分の才能(→言語能力だと当時は思っていた)を生かしたい!」って、本気で思っていたのも、今考えればコンプレックスの裏返し。

仕事は大変だったけど、親の反対も押し切った手前、言い訳だけは出来なかった。そしてその時の苦労があったから、今、ある程度主体的に、仕事に取り組めるようになった自分がいるんだと思う。

 

そして今、また転機を迎えている。

今までは、得意の「まとも」でどうにでもなったけど、それが飽きを迎えたから、仕事を変えることにしたのが9月。そして後任が決まり、いよいよ転向したのが3月。

慣れない仕事に、戸惑うこともあったけど、ようやく整理がつきだしたのは、冒頭に書いた「大人」というものに、いよいよわたしもなるときが来た、と思うからだ。

 

「大人って個性的である」と、子供の私は思っていた。

みんな生まれたときは、似たような形(なり)をして生まれているのに、いつかどこかで分岐点を迎え、「私」という個性を持った人間になる。

個性になる時、その時こそが、「大人」になる、その時なのだ。

 

じゃ、「個性的になる」ってどういうことなのか。それは「磨く」ってことだと思う。

「磨く」を辞書で引くと、①表面を研ぐ ②汚れを取る ③念入りに手入れをする ④努力して上達する ⑤栄えを増す とかいろいろあるけど、要は、「捨てる」ことでしょ。

 

もしかすると私にとっては、ずっと違和感を持ち続けていた、「まとも」さを捨てることなのかもしれない。

表現を変えると、「清濁併せ持つ」とか。自分の中で優先順位をつけ、低いものは気にしない、ってことだったりね。

ドイツのことわざで、「誰からも嫌われない人は、実は誰からも好かれていない」的な言葉があるらしいけど、拡大解釈すれば、私が長年善しとしていた「まとも」って、実はリスクもないけれど、メリットもないんじゃないかって、だからそれに気づいた「大人」は、リスクを承知で何かを捨て、個性を磨くことを選んだ結果、子供の私が思っていた、「大人は個性的」という状況に至ったのではないか。であればわたしも、最大限にそうするよね、っていう、そういう心境に至った。

 

人はいうだろう。「無責任じゃないか?」とかいろいろ。

だけど本当に大事にしなきゃいけないのは、私の人生を本気で大事に考えられるのは、何を隠そう(?)私ひとりしかいないんだってこと。

 

本当は、みんなと協力するのが楽しい。自分を優先する余り、ギスギスした環境になるのはイヤだ。

けど、「磨く」っていうことは、ある種の選択と集中なのだ。

相手に合わせるばかりが、いいことだとは限らない。自分まで犠牲にしていいわけじゃない。だって世の中の人は私が思うより、ずっと磨かれてて、個性的なんだから、今度は私の番だって、いいだろう。