約30年ぶりに、母、兄、私とで家族旅行をしてきました。
目的は墓参@松江。
岡山に転勤した兄が、最近車を買ったので、それで行こうということに。松江以外はノープランでしたが、岡山、鳥取、香川を満喫することができました。
倉敷(岡山)
総社&高梁(岡山)
大山(鳥取)
境港(鳥取)
米子(鳥取)
本っ当にノープランだった割に、多くの素晴らしい景色だったり、写真こそないけど素晴らしい料理や温泉だったりに出会えて、これはひょっとしたら先祖の導きなんではないかと。墓参という行為を通して、先祖に「関心」を寄せたことで、得られた導きなんじゃないかと、感じることがありました。
なんというか、先祖だから「当たり前に」導いてくれるわけじゃないというか、「関心を払う」ことが大切なんだと感じたのです。
というのも、30年ぶりに旅行をした私たち3人(母娘はよくあるが、兄は久しぶりだった)。今は東京、静岡、岡山と離れて暮らしていますが、そこそこ仲が良いのは、母が「関心」を払い続けてくれているから。
「けんちゃんは××したがっている」とか「ゆかちゃんは今も昔も○○な子だ」とか、信憑性が低いときもあるにせよ、うざいぐらい関心を払ってくれるから、私たちは安心してくっついたり離れたりできるのです。これは血縁があるからといって、決して当たり前ではないこと。
つまり、30年ぶりでも旅行しようとか、それをそこそこ楽しめたとかいうのには、一定の関係性が必要で、その土台になっているのが、一定の関心なのだと。それには(ときにうざいほどの)不断の努力が必要なのだと、感じたわけです。
関心こそが、関係性を作る。
それは生きていようと死んでいようと、家族であろうとなかろうと関係なく、一朝一夕にはできないもの。それをショートカットすることはできないから、毎日続ける必要があると。
ウェットなのって苦手なんだけど、凄く大切なことに気づいてしまったっぽい、30年ぶりの家族旅行でした。