まさかの岡山、続き

急ぎの仕事を代わってもらえたので、熱海から新幹線で来る母を出迎えることにしました。

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結果、大正解。

岡山駅→病院で面会→兄の家で荷造り→足りない物を買う→病院に届ける→兄の家に戻る

という行程、土地勘のない70才の婆さんに、バスやタクシーで移動させるの、可哀想でしょう!

その代わり私は、夜間に高速走って疲れたけど、こういうのは…できる人がしないとですね。

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さて、今回の脳梗塞騒ぎで、私は初めて「家族の必要性」が分かりました。

「集合治療室には“家族”しか入れない」というのが直接的なところですが、

間接的には、母と兄の「老い」を感じたこと。

今まで家の中では一番年下で、一番役に立たなかった私が、まあまあ重要な立場になった、というところから連想されたのが、

「私自身が老いるとき、この人たちはこの世にいない」

ということだったのです。

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これまで、“家族”というものに、良いイメージが全くなく、会えば喧嘩ばかりするし、安らぎだって感じなかった。

“結婚”も同じで、身内はほとんど離婚してるし、成功してる夫婦なんて見たことがない。

加えて、自分で働けば困ることはなく、好きになった人は…だし、私生活にしたって、人がいない淋しさより、いる煩わしさのほうが優勢だった。

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けれども、「老い」と「病」を目にしたとき、それに勝る強いインパクトがあったのです。

最後の最後は“家族”だと。

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1年以上先のことを考えるのは苦手ですが、初めて、私が…才になるとき、親は…才、兄は…才、だから今、この年代で…ということを考えました。

恋も愛もないところから考える家族が、リアルなのかもしれません。