3回目の朝食の後、iPodから流れる何曲かが、妙に染み渡るGW最後の朝。
もう数時間したら、私の未来を動かす1本の電話があり、その直後には、寒空の下待ってくれている人たちのもとへ。
未来を悲観しようが楽観しようが、この体がある限り明日は来るし、始まったものには必ず終わりがある。
束の間に甘えることは出来ても、完全に依存することは出来ない。
自分をどうにか出来るのは自分だけなのだ。
苦しいことがあったとき、それをどう解釈するか、悲しいことがあったとき、それをどう次の行動に繋げるか。
いつものように、昨日もそんなやりとり。
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「不安」と「不満」について考えていたことがある。
不満をエネルギーにした25歳前後があって、不安をエネルギーにした30歳前後があった。
そして35歳を迎えた今は、「喜びを増やす」というステージへ。
悲しみを打ち消し合い、喜びを分かち合う、そういう仲間を増やす時期なんだと思う。
出来ないことは出来ないといい、いい意味で甘える。
期待を裏切られたときは、次の「甘い」のための「酸い」だと解釈し、「甘い」に出会えた時は、最大限の感謝をする。
「幸せ」は考えるものじゃない。感じるものだ。
感じ続けてしまえば、その人生は幸せなのだ。
幸せそうな人は、それがうまい。そして人は、幸せそうなところに集まる。
肩寄せ合って、幸せあげたりもらったり、そんな風にしてきっと、優しい顔で死ぬんだろうな。