暦の上では春というが、篠山にいると確かに、季節の移ろいを体感できる。
朝の霜が降りなくなったし、空気も多少柔らかく、外に出るのが辛くない。真っ白なフロントガラスを溶かす必要もないし、洗濯だって1日で乾いた。
そんなことと関係あるのかどうか、今日(2/2)は幸せな1日だった。
何をしたということはない。
亀岡まで運転して、産直で野菜見て、しまむらで靴下を買い、王将を食べた後、ニトリで布団を買ったのだ(来客用)。THEロードサイド。
や、別にロードサイドが好きってわけじゃなくて、春の訪れを感じたことや、初めての道を走ったこと含め、ささやかながらも「自由」を感じたのである。
本来、自由は「都会」にあるものとされている。18才の私もそれを求め、都会の大学に入ったわけだが、もうすぐ40になろうという今、田舎が心地よくなってきたのは、要は都会が自由過ぎた。欲しくもないものまで揃い過ぎていたのだろう。
この「もやっ」とした感じを、図解してみるとこうなる。
《都会》
外的刺激が多い
→自分の欲+大してしたくもないことまでしたい気分になる(人気の店に行きたい、とか)
→それで忙しくなる
→〇〇さんのために△△しなきゃということ(仕事とか)もある
→忙しいからムリヤリ頑張る
→介在価値感じられず疲弊だけする
《田舎》
外的刺激が少ない
→最低限の欲だけが残る
→それを満たしてもまだ時間が残る
→〇〇さんのために△△がしたい、という欲が生まれる
→純粋に〇〇さんのために△△を頑張る
→介在価値感じて嬉しい
これを書いてみて、重要なのは「都会or田舎」の二元論ではなく、周りに流されず「自分のバランス」を保つことなのだと気づいた。
私は今のところ、田舎のほうが保ちやすい。とはいえ、崩れるときは崩れるだろう。そんなとき、立て直すのは自分しかいないのだ。
季節を感じる自由。新しい道を走る自由。〇〇さんのために△△を頑張る自由。
のために、これは肝に銘じておきたい。むん。