未来が前向きになる関係
病んでいる私を心配して、友達がボディミストなるものをくれた。meditate=瞑想という名のブランドで、心が前向きになるらしい。
実はもう病んでないけど、また病んでも大丈夫!な気がした。
私からは彼女に、日記帳をあげることになった。女子中学生みたいだが、“おそろい”で2冊購入した。私たちは「朝日記」を書くのだ。
「朝日記」とは、俳優の満島真之介が書いているもので、その内容が凄い。「その日あったこと」ではなく、「その日あること」を書くのだ。
通常の日記は「過去」を書くから、良いことも書けば悪いことも書くけど、朝日記には「未来」を書くから、わざわざ悪いことを書いたりはしない。
結果それが、「今日を良い1日にする!」という決意になり、その日の行動に影響するのだそうだ。
そんな情報をくれたのも彼女だが、私たちはこのように、「いかに前向きに生きるか」みたいな情報共有(?)をよくする。
しかし、会社で出会った7年前には、愚痴かバカ話か、ゲス話しかしなかった。もちろん今でも8割はそう。だけど2割ぐらいは、ちゃんとしたことも話すようになった。私たちは成長しているのだ!
tokyo100k.hatenablog.jp
私は最近、長く続く人間関係と、そうでない人間関係とは何が違うのかを考えていた。
私自身は、やっぱり前向きなのが好きだし、「共感」はもちろん大切だけど、あくまで「成長」が前提だ。
昨日はよくあるただの飲み会。だったけど、それぞれが成長を支え合い、共感し合える友達に、恵まれていることを実感した。
「永すぎた春」がいけない理由
4年間ほど、同棲していたことがある。
というと多くの人に「どうして結婚しなかったの~?」と聞かれるが、まぁしたくなかったんだろう、結局のところ。末期には震災あり、転勤ありで、ほんと神の思し召しかと。
「永すぎた春」は何がいけないって、歩幅に差が出てしまうこと。
「恋愛は互いを見ること、結婚は同じ方向を見ること」といった人がいるけど、「互いを」見ている最初のうちは、揃えようとしなくても揃っていた歩幅が、互いの中に見るものがなくなってくると、各自見たい方向を見始め、だんだん離れていってしまう。
結婚=「同じ方向を見よう!」という覚悟もないから、気づいたらえっらい離れて、今更、同じとこから歩けません、みたいな。
ロックバンドだって、「方向性の違い」で解散するけど、ほんっと続けるって凄いことやー。
さて、今回考えたいのは、夫婦にせよバンドにせよ、長く続けるために必要な要素は何かってこと。
自分でいうのもアレだけど、私は若いころ「成長」を重視する人だった。「共感」を重視する彼と、そりゃー合うわけない。てか、男女逆か?
世間にはほかにも「成果」重視型や、「体面」重視型などいろいろいる中で、これらを「同じ方向」として、一致させるのは難しい。
そこで大切になるのが「適度な距離感」なのか。
あんたはそっち行くんだね。私はこっち行くけどね。ゴール一緒っぽければそれでいいよね、みたいな。互いに合わせ過ぎないこと、合わせさせようとしないこと。これを「自立した関係」というのだろうか。
そういえば、aikoが昔、「一緒に歩幅合わせて生きたい」って歌ってたな。まんまと感情移入したけど、方向だけじゃなく、歩幅まで合わせたいなんて、恋の渦中もいいとこだ。
「さみしさ」の8割ぐらいは、自分の心が原因だ
私は昔から「優しい男」に引っかかりやすい。
「優しい男」に文句はないが、問題なのは「優しいだけの男」と紙一重であること。私が未だに未婚なのは、7割がこの「癖」によるものと思う(3割はモテないからw)。
なぜ、「優しいだけの男」に引っかかってしまうのか。理由は簡単。「さみしい」からだ。
「さみしい」とは、辞書によるとこうある。
親しい人がいないなどで、心が満たされず物悲しい。
親しい人がいないという事実ではなく、いないような気になってしまうことともいえる。
連休中、旧友たちの優しさに触れ、心満たされたことは前にも書いたが、「さみしさ」の最たる原因は、この人たちの存在を忘れてしまう、自分自身の心なのかも。
最近私は、西田文郎という人の本ばかり読んでいる。この人は「メンタルトレーニング」のプロで、名だたるオリンピック選手やらプロスポーツ選手のメンタルを指導してきた人らしい。
私は「ツキと幸運がやってくる31日の習慣」という(タイトル的には「うーん」な)本を参考に、毎日簡単なトレーニングをするのだが、3日目にして既に効果あり。
「支えてくれた人に感謝しなさい」とか、割とそういう内容なんだけど、騙されたつもりでやってみると、なんか意外にもねー、ごぶさたしちゃってるけど本当はまた会いたい人っていっぱいいるなぁ!
ってそれだけで、満たされた気になってくる。お母さん、産んでくれてありがとう!みたいな(私は素直な性格です)。
生涯未婚率が上がっているとか、孤独死する人が増えているとかいうけど、人間、本当に本当に独り、なんてことはないのだ。
人間関係に対する意識は、自分でコントロールできるものだし、そこで満たされた感じになれれば、新しい人間関係にも、もっとポジティブになれるはず。そしてきっと、これが本当の意味での「精神的自立」なんだと思う。
ひとり旅、ふたり旅
ひとり旅はいいものだ。
目的地を決め、計画通りに実行すれば、全てが自分の思い通り。人に気を使う必要はないし、異国を歩く自分の姿も、勇敢で格好いい感じがする。
と、若いころにはこういう理由で、ひとり旅をよくしていた。ヨーロッパ、アメリカ、アジアなど数えきれないほど行った。
しかし。
見たいものをある程度見ると、欲しくなるのが、「想い出」というもの。ひとり旅だと記録(写真)は残るが、記憶は自分の記憶次第。人と共有できるものは少ない。
さて、最近私は、ふたり旅をしてきた。
見たいところが多いわけではなかったが、それにしても連れが、見たいものを見せてくれない。旅の価値観が異なるのだ。
その代わりに、連れが見たがっていたものの中で、見て良かったものがたくさんあった。
田舎の山道で古い地図と格闘したり、渋滞を歌って乗り越えたり、独りではできないことも多かったし、自分で予定していなかった中で、期待以上のできごとがあった。写真はろくに撮れなかったけど。
というわけで、ひとり旅はいいものだが、ふたり旅もまたいいものだ。比べるのもアホらしいくらい、質が異なる。
計画と勇敢さで満足を得るひとり旅に対し、ふたり旅は、道中が丸ごと想い出になりうる。
喧嘩の作法
何の自慢にもならないが、私には、男のプライドを傷つける才能がある(遺伝です)。
- 相手の論の矛盾を突く
- 事情を推し量らず、正論ばかりを主張する
- 弱いところをわざわざ攻める
これさえ押さえれば、男のプライドはズタズタ。「男は論理的、女は感情的」とされている中、論理で女に潰されるんだから、それはそれは辛いだろう。「尻尾巻いて逃げる」男を、これまで何度見たことか。。。
しかし!男のプライドを潰したところで、私には何の得もない。喧嘩には勝てたとしても、その関係ごと失ってしまう。未来のある喧嘩をするには、守るべき作法があるのだ。
と、こういうことを書くのには背景がある。私はある人物を、「未来のある喧嘩」に導きたいのだ。
その人は会社の同僚(女性)。先日私が、会社に対する不満を口にしたところ、その人の心に火がついてしまい、ことあるごとに吠え、「内部告発したい」などと穏やかでない。しかし、このままほっとくと「未来のない喧嘩」になりそうなのだ。
そこで私は考える。会社における、喧嘩の作法とは何か。。。
- 相手の論の矛盾を突く→×
- 事情を推し量らず、正論ばかりを主張する→×
- 弱いところをわざわざ攻める→×
男と女の喧嘩も、会社との喧嘩も、やっちゃいけないことは同じ。喧嘩したいんじゃなくて協力したいんだから、
・論の正しさよりも、共感ポイントを探す
・正論ばかり主張せず、双方の事情を推し量る
・弱いところを見せ合い、協力できる方法を考える
これだ。双方がこういう想いでないと、「未来のある喧嘩」なんてできない。しんどいプロジェクトにただ、潰されてしまうだけだ。
まっ、元々は、同僚の人間関係をぶち壊すほど、しんどいプロジェクトを立ち上げた会社に責任がある。喧嘩や内部告発を通して、チームが育てばそれで良いのか???
泣いて心を裸にする
今年の3月から、「涙活」と称して映画観賞をしている。少なくとも隔週で名画座に通い、感涙する時間を作っているのだ。
昨日は、目黒シネマで「ニュー・シネマ・パラダイス」。20年前に見たけれど、20年後もしっかり泣けた。
涙活の必要性を感じたのは、もちろん仕事がきっかけだ。論理や数字や効率ばかり求められる毎日。どうやら成果は出したらしいが、自分自身が喜んでいない。感情そのものが、枯れているのを感じた。
そこで傑作「ニュー・シネマ・パラダイス」。私はもちろん、そこら中からすすり泣きが聞こえる。
みんながみんな、泣いて心を裸にしている状態。どことなく空気が柔らかく、自分も優しい気分になれる。平日の張り詰めた会議室とは、大きく異なるものがある。
この作品は、主人公のトトと映写技師のアルフレード、そして村の人たちが、戦時下にあっても(映画を通して)笑いや涙を共有した、というストーリーだけど、
今を生きる私たちも、論理と数字と効率の世界で、緊張ばかりして暮らすのではなく、笑いとか涙とかいう、あってもなくても死にはしないものの価値を、改めて見直したほうが良い。それがあって初めて、人生を味わえる気がする。
頑張り屋だから捨てたい2つのこと
久しぶりにすっきり目覚めた土曜の朝。ストレスがない週末なんて、およそ2ヶ月か、ヘタすりゃ半年ぶりだろうか。
連休明けの今週は、ミスの後処理など、気の重い仕事が多かった。
がっ、開き直って同僚に、「私はしんどかった(=ミスしたくてしたわけじゃない)んだ」と告白。そしたら逆に仲間が増えた。
独りで抱え込むなんて、バカなことをしたもんだ!
ということで、朝からモチベーション高く、(週末のタスクである)掃除もしたし、映画も見たし、友にも会った!明日は副業頑張れそう!
しかし最近はGWも含め、週末といえばグータラ。予め決めたタスクもこなせず、そんな自分を責めてすらいたが、私だってストレスさえなきゃ、こんなに元気に過ごせるのだ!グータラは疲れている証拠だった。
ということで、私は今回の学びを基に、次の2つの「バカなこと」を捨てる。
1つは、問題を独りで抱え込むこと。
もう1つは、グータラな自分を責めること。
抱え込むのは頼られてる証拠。頼られなければ抱え込むものもない。
グータラは頑張ってる証拠。頑張らなければ疲れ切ることもない。
人に頼られるのは素晴らしいこと。頑張るのだって素晴らしい。だけど人は私を頼って、私を不幸にしたいわけじゃない。私も人を頼れば良いのだ。
「独りじゃない」の意味が分かった。
覚悟を決めたら、逆にやる気が湧いてきた
ここ最近、「会社なんか辞めてやる!チキショー!!」気分だった私。
その気分は連休中、「どうせ辞めるんだったら、いいたいこと全部いったるわ!」気分に昇華した。
連休中に酔いながら書いたメモ
連休明けの月曜は、全員集まる会議があって、
その会議にはわざわざ「今の気分を率直に語る時間」があるのというのに、みんな連休の報告ばかりで、「率直に」なんて語りやしない。
そこで私は「本当に率直に語ります」という前置きで、2つのことを告白した。
1つは、最近ずっと、しんどかった。しんどいことがいえなかった。ということ。伝えなければ伝わらないから、伝えることを決めた。ということ。
もう1つは、(上司はともかく)みんなのことは好きだから、もっと信頼関係を築きたい。ということ。 いつまで一緒に働くか分からないけど、心残りはそれだけだ。ということ。
普段クールっぽい私のこんな発言にはインパクトがあったみたいで、声を震わせ喋った後には、みんなが拍手をしてくれた。
そして、「ネガティブな発言をしてはいけない」という雰囲気に風穴が開いたのか、そこかしこで「率直に語る」人が増えたような気がする(たった2日で!)。
出世より昇給より、これが私の目指す世界、なのを実感した。
「覚悟」という言葉には、「迷いから覚めて、真理を悟る」という意味があるらしいらしい。
「本当に辞める」と覚悟したら、迷いが晴れ、大切にしたいことがよーーーく分かった。
人には「優しさ」という能力がある
連休が終わった。
今年は旅行などせず、ただただ毎日人に会った。久しぶりの連絡にも関わらず、1人残らず優しくて、情緒不安定の私には、ありがた過ぎる連休だった。
私は人に、優しくしたい。そして人から、優しくされたい。
当たり前過ぎて自覚しなかったけど、私にとって人生の目的はこれだ。
健康な体も平和な世界も安定した暮らしも、全てこの目的を果たす手段に過ぎない。心を亡くすぐらいなら、すぐにでも手放さなければ。
ということに、この連休で気づいた。
「信」弱いままに助けられ守られていく喜び
もう1つ気づいたのが、
優しくされたければ、甘えなければならないということ。
もちろん甘えてばかりはいけない。けれど本当に困ったときは、逆に甘えなければいけないのだ。
そうでなければ伝わらないし、意外にも人は、甘えられるのを待っている。甘えなくても自分はできる、なんて勘違いしてはいけない。
連休明けは修羅場の予定。
クビになっても構わないので、甘えるだけ甘えて乗り越えられたら、皆さんに感謝を伝えたい。