金曜は早めに会社を出て、仮住まいへ遊びに来る、母を迎えに新大阪へ。
『来たは良いけど、明日どこ行くの?』
などと聞くまでもなく、母は綿密に調査した奈良の地図やら料金表やらをごそごそ。
そうそう、きっと奈良だろう。確かに予想はしていたけれど、親と趣味が合う、というのはなかなか幸せなことである。
もちろん技術も立派だけれど、本当に立派なのは、作品に込められた、気迫。奈良時代から伝わる、数々の国宝と並んでも見劣りしないのだから、100年後、200年後に残る、平成の作品になるのだろう。
不退寺を経由して、興福寺へ。
興福寺には、まるで博物館のような『国宝館』があり、数々の有名な仏像が並んでいる。
薬師寺に続き、ここでも感じるのは、心。
国宝とされる仏像は、技術的にも立派なもの。だけど、ミロのヴィーナスと違うのは、作者の名前が分からないこと。
作品を残して、名前を残す。そんな発想はなかったのだろう。何故ならそれは、作品ではなく、祈りだから。
※余談ながら、子供の頃は『地蔵』、数年前には『観音』、そして最近は『仏』と呼ばれたことのある私が、何とも親しみを感じてしまったのは、興福寺の『須菩提像』。
最後の目的地は、奈良市写真美術館。
郷土の奈良を撮り続けた、入江泰吉氏の作品を通年展示する美術館である。
今日1日通して、心を作品に投影する、その意義やら意味やらをひしひしと感じたのだけど、入江氏の態度からもまた、学ぶべきものが多かった。
彼は、目の前にあるシーンと自分の中のイメージが一致するまでは、決してシャッターを切らなかったのだそうだ。
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自分は、雑に、流されて生きてしまっているなと。
売れているもの、人気のあるものを、表面的に真似てはいるけれど、そこに自分というものは?
忙しくて、わざわざ来てくれた母にまともな接待が出来なかったことも含めて、いろいろと自省の残る、大和路歩きの1日だった。