ゆかこの部屋

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コロナ後を考えるⅠ|コロナの時代の僕ら

馴染みの居酒屋が閉店するので、最後に遊びに行ってきた。

店内は、常連さんがちらほら。雰囲気が寂しかったのは、壁中に貼られていた「お品書き」が剝がされてしまったせいだろうか。

賑わいに満ちていた空間が、なくなる。

こういうことは今後、日本中で起きるのだろう。

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「居酒屋が閉店」といえば、北九州の繁華街で、ねずみが大量発生しているらしい。

www3.nhk.or.jp

ねずみが増えているわけではなく、飲食店の休業で餌が少なくなったことから人前に現れ、活発に活動している

のだそうだ。

 

「食べるのに困っている。」

それは「ねずみ」だけではないようで、

神奈川では強盗が増え、仙台ではホームレスが増えた。ナイナイの岡村によれば、風俗嬢も増えるらしい。

【新型コロナ】外出自粛で目届かず…強盗事件急増 神奈川、前年同期比2.6倍 | 神奈川新聞社

仙台でホームレス増加 若年層の相談が相次ぐ | 河北新報オンラインニュース

岡村隆史さん「コロナ明けたら可愛い人が風俗嬢やります」発言に批判 - 毎日新聞

 

普通に働いて、普通に食べられない人が増えている。

一部の自治体や民間で、独自のサポートを始めるところも増えてきたが、このトンネルの出口が、見えている人はまずいないだろう。

 

「コロナの時代の僕ら」という本が、ベストセラーになっている。 

 

世界一のホットスポットになったイタリアで、3月上旬に書かれたエッセイ集だ。

帯にはこうある。

何を守り、何を捨て、僕らはどう生きていくべきか。 

「コロナ後」を考えているのだ。

著者は「素粒子物理学」を専攻した小説家、パオロ・ジョルダーノ氏。つまり、理系の頭脳と文系の感性で書かれた本なのだが、その中でジョルダーノ氏は、「ウイルスから見た人類」を、このように表現している。 

(ウイルスにとっては)僕らの年齢も、性別も、国籍も、好みも無意味だ。ウイルスの前では人類全体がたった3つのグループに分類される。まずは感受性人口、つまりウイルスがまだこれから感染させることのできる人々。次が感染人口、ウイルスにすでに感染した感染者たち。そして最後に隔離人口、ウイルスにはもう感染させることのできない人々だ。 

日本では、「暑くなればウイルスは消える」ぐらいの噂もあったが、そんな迷信めいたことは一切ない。

収束させる唯一の方法は、ウイルスが「感受性人口」と接するチャンスを完全に奪ってしまうこと。感染した人と感染していない人を隔離すること。そのために検査と外出禁止が要るのだ。

 

ロイター通信によれば、韓国では「生活の正常化に向けた2年間のガイドライン」が発表されたらしい。

jp.reuters.com

その内容は、マスクや消毒、ソーシャルディスタンス、テレワークの推奨など、日本で今行われている規制と近いものがあるが、驚くのはその期間である、に、2年って!!!

長い「付き合い」になることは、ジョルダーノ氏も書いている。もし油断してしまえば、ウイルスが新たな「感受性人口」を見つけてしまえば、それまでの努力は水の泡になるのだ。

その上で、本書はこのように提案している。

苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々も含めて、僕らは人生のすべての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか。

(中略)

COVID-19の流行はあくまでも特殊な事故だ、ただの不運な出来事か災難だと言うことも僕たちにはできるし、何もかもあいつらのせいだと叫ぶこともできる。それは自由だ。

でも、今度の流行に意義を与えるべく、努力してみることだってできる。この時間を有効活用して、いつもは日常に邪魔されてなかなか考えられない、次のような問いかけを自分にしてみてはどうだろうか。

僕らはどうしてこんな状況におちいってしまったのか。このあとどんな風にやり直したいのか。

帯に書かれている、

何を守り、何を捨て、僕らはどう生きていくべきか。 

と、繋がる部分である。

 

日本では今後、普通に働いて、普通に食べられない人が増えていく。

未来は暗い。

だけど、だからこそ、考えようということ。目の前で起きることに一喜一憂するのではなく、その結果から原因を考え、悪いことならばそれを断絶、良いことならばそれを継続しようということ。

何を守り、何を捨て、僕らはどう生きていくべきか。 

実は、あのときも考えたのだ。東北で震災が起きたときも。だけど、忘れてしまっていた。今は、その反省を生かすときだ。

ジョルダーノ氏はこう結んでいる。

(復興が始まったら)支配階級は肩を叩きあって、互いの見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を褒め讃えるだろう、自分が批判の的になりそうな危機が訪れると、権力者という輩はにわかに団結し、チームワークに目覚めるものだ。

一方、僕らはきっとぼんやりしてしまって、とにかく一切をなかったことにしたがるに違いない。到来するのは闇夜のようでもあり、また忘却の始まりでもある。

もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。

家にいよう。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼み、弔おう。でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう。「まさかの事態」に、もう二度と、不意を突かれないために。