ゆかこの部屋

大きな1個の幸せではなく、身近な小さな幸せを100万個ぐらい集めています

win-winになるケア、ならないケア

『ボブという名の猫』という映画を見た。

薬物依存のためホームレスになった男が、「ボブ」という野良猫に出会ったことで、生きる希望とチャンスを得るという、イギリスで実際にあった物語だ。

主人公に懐く猫がかわいらしく、また猫がかわいらしいからチャンスが来たようにも見えるのだが、本当のポイントは、孤独だった主人公が、猫という「ケアする存在」を得たことだった気がする。

「ボブがいたから頑張れた」。私の目にはそんなメッセージに映ったのだ。


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さて私は最近、ある人のために頑張っている。

自信がなさそうなときは、肯定的な言葉をこれでもか!というほど浴びせ、元気がなさそうなときは、体に良いものをこれでもか!というほど食べさせる。困ったことがあれば聞き、一緒に考えてあげることもしばしば。

頼まれたわけでもないのに頑張れるというか、次は何をしてあげられるか、ひとりでに考えてしまう自分がいるのだ。

映画との共通点でいえば、「ケアする存在」を得たことで、力が湧いてくるのを感じている。「その人がいるから頑張れる」。孤独で利己的だった私に、こんな日が訪れるとは!

 

…と、何を驚いているかというと、ケアには「しんどい」イメージしかなかったからだ。子育て、看護、介護など、「誰かのためにする」なんて、私には到底できないことだと。

ところがどっこい、今は楽しい。ケアって本当は、しんどいの? 楽しいの? どっち?

ひょっとしたらそこには「分水嶺」があるのかもしれない。以下、仮説を考えてみた。

・当事者が自助努力をしている(ように見える)
・その上で、当事者がケアされることを求めている
・ケアする側にケアを担う能力(キャパシティー)がある

マトリクスにするとこんな感じになるだろうか。

恐らく、映画や私は①。楽しい子育てや、普通の助け合う関係も①に入るだろう。

それ以外のケアが、いわゆる「win-winでない」ケアに当たりそう。②は教育ママ的な問題(ありがた迷惑型)、③はワンオペ育児や介護など(キャパオーバー型)、そして④は…尽くしすぎてしまう女とかかな(貢ぐ型と呼ぼう)。

…改めて分類してみるとほぼwin-winじゃないっていうか、これら全てを個人の責任に矮小化するのは無理があるな。高齢者などケアを求める人がますます増えるって中で、気候や景気と同じぐらい、注目すべきテーマなのでは…。

がっ、今日考えたいのは「公助」ではない。ケアをなるべくwin-winにするために、自分の《心がけ》でどうにかできることはないのだろうか。せっかく「ケアすべき存在」がいるというのに、誰かが苦しむなんて辛いじゃないか…!

 

《心がけ案》

自分がケアするとき:相手が求めていることか、自分ができもしないことまで頑張ろうとしていないか見極める。

自分がケアされるとき:ケアしてもらったら喜びを伝える。喜びを感じないなら丁重に断る。

②〜④を見かけたとき:困っていることがないか聞き、できる範囲でケアしてあげる。

 

要は心がけで①を増やそうってことだ。ケアの全てが「しんどい」わけではないのだから。

確かに、公助の不足は気になる。けれど、個人には個人的なことしかできない、という前提で、例えば「満員電車」に新しく1人乗ろうとするとき、前から乗っていた人たちが1センチずつ詰めることで新しい1人分のスペースができる、みたいなことがあるように、個人が始める個人的なことは《心がけ》からしかないはずだ。

まずは自分のところから、小さなwin-winを増やしたい。巧く付き合いさえすれば、ケアは喜びの源泉になるはず。