ゆかこの部屋Blog

日々の行動と感動をコレクションします

奈良県下北山村の「在」

「むらコトアカデミー」の現地実習で、奈良県下北山村に行ってきました。

実習は2泊3日。その1日目の感想は「在」。

本当は「ある」はずなのに、都会の暮らしでは「ない」ことにされているもの。それがここにはちゃんとある。

そんな気づきを得た、1日目のふりかえりです。

f:id:tokyo100k:20180717214029j:image

東京から6時間、京都からでも4時間弱という長旅の末、奈良県は下北山という秘境の村にたどり着いた。

f:id:tokyo100k:20180717215514j:image

14:45@歴史民俗資料館

にて、まずは村の起源から。

下北山村は、今から1300年以上前に、役行者(えんのぎょうじゃ)という呪術者によって開かれた由緒ある土地であることを、巽館長より学ぶ。

f:id:tokyo100k:20180717214058j:image

16:15@林産加工施設

そんな村の産業は林業。移住してこれに携わる本田さんと施設を見学。

過疎化、高齢化、外材の輸入などによる価格の下落で、村は打開すべき苦しい状況にあることを学ぶ。

f:id:tokyo100k:20180717214111j:image

17:10@NPO法人サポートきなり

続いては、過疎化する地域で朝市やスキルシェアによるコミュニティ維持に尽力するみなみさんに会う。

「発酵」に造詣の深い人で、寺田本家と通じるものを感じる。

f:id:tokyo100k:20180717214133j:image

17:55@ゲストハウス晴々

最後は、下北山村を「パーマカルチャーの聖地にする」志で、移住した小野夫妻に会う。

村は不便。だったら自力で作ればいい、という生命力の強さを感じる。

f:id:tokyo100k:20180717214152j:image

21:05@池の平ハウス

-----

深刻化する過疎の村と、それに立ち向かう人々に出会う1日。

そんな中で印象に残ったのは、それでも彼らを魅了している下北山村の「自然」でした。

例えば、林産加工施設で嗅いだ木材の香りとか、道中で聞いた鳥の声とか、宿で車を降りた瞬間、頭上に広がっていた満天の星とか、その心地よさといったら、五感にダイレクトに響いてくるのです。

昨日までの東京の現実が溶けていくような感覚の中で、本来、都会にだってあるはずなのに、都会では感じられなくなっているもの。それがここにちゃんとあるってことが、尊いような気がしました。

そんな自然を潰してまで、便利を追求することが大切か。自然の感覚を失くしてまで、都会で暮らすことが偉いのか。なんて真面目に考えたりも。。。

(続く)

バカなことを大真面目にやる意味

会社を辞めると決めて以来、「やり残したことは全部やる」を標榜している私。悔いなくさっぱり去りたいからだ。

さまざまな「やり残し」がある中で、重要視しているのは「宴会の演出」である。

と書くと、遊びたいだけに見えるのか、真面目な人にはバカにされるが、この際はっきり書かせてもらおう。バカなことをバカにすることほどバカなことはない。バカだからこそ、大真面目にやる価値があるのだ。

と、いうわけで、昨日の宴会は頑張った。

オリジナルの「ズームイン朝」を撮ったり、桃太郎を描いたり、管理職たちの寸劇を作ったり、見た人でなければ分からないだろうが、それはもう盛り上がった。楽しそうな会場を眺めながら、呑むビールは最高に旨い。

さて、こんな私が宴会の演出で、大切にしていることは2つ。

1つは前述の通り、「バカなことを大真面目にやる」こと。

ズームインだろうと桃太郎だろうと寸劇だろうと、本気でやることが大切だ。

何故なら、「バカなこと」は人の間にある垣根をなくし、「本気」は人の心を結びつけるから。要は、人の心を1つにしたければ、バカなことを大真面目にやる、これが最も簡単で早い。

そしてもう1つ大切にしていること。それは「自分たちを素材にする」こと。

今回は全国津々浦々からメンバーが集まったので、ご当地感の演出、そして寸劇ではそれぞれの人となりを表現するのにこだわった。

これによって、普段は伝わりづらい1人ひとりのキャラクターだったり、その背景にあるご当地のことが分かり、それぞれの違いをこそ尊重しようという空気が育つ(はず)。

宴会とは、ただ呑んで酔って盛り上がればいいのではなく、その準備から閉演まで全ての時間に、「懇親」のための重要なエッセンスが詰まっているのである!!!

…と、偉そうなことを書いているが、本当は感謝しかない。

プロジェクトを仕切ってくれたKさん、映像を作ってくれたYちゃん、リハーサルの3倍は輝いていた司会の2人始め実行部隊の皆さんと、会場で楽しんでくれた皆さん、

そして、今回書いたような思想を私に叩き込んでくれた、2009年〜2011年ごろに同僚だった皆さんと上司。

皆さんのおかげで私はあります。ありがとうございました。

農的暮らしから学ぶ -後編-

中島デコさんと岡本よりたかさんのトークイベントを聞いてきた。

畑はやめても学びはやめたくないと、あれこれ探していたところに、こんなメディアを見つけたのだ。

thecampus.jp

中島デコさんは、私も行った「ブラウンズフィールド」の主宰者で、

brownsfield-jp.com

岡本よりたかさんは、自然栽培の伝道師として有名な人(らしい)。

www.soramizu.com 

ここで何が語られたかは割愛しちゃうけど、

なんというか、この1年、畑をやったり田舎ツアーに参加したりする中で考えてきたことが、1本の線になった気がする。

私は、畑がやりたかったんでも、田舎に住みたかったんでもなかった。

自然に、健康に暮らしたかったのだ。

 

きっかけは、岡本さんの言葉だった。

自然栽培の作物には生命力があり、食べるだけで体が強くなる。

自然とは、ほったらかすということ。その反対は、人が手を入れコントロールするということ。

「自然=ほったらかす=強い」は作物だけでなく全ての法則で、今、西日本が豪雨に襲われているけれど、災害が起きている土地はほとんど、人の手が入り過ぎてしまっている。

自然のままにほったらかされた土地は、(岡本さんが住んでいるところも含め)強くて壊れることがない。

 

このブログを読んでくれている人なら分かると思うが、私が畑を始めたり、田舎ツアーに参加したりするようになったのは、会社の仕事が辛くなったことが原因だった。

あれは1年ちょっと前。

急に難しい要求が増え、どんなに効率よく片付けても、仕事の終わらない日々が続いた。

私を含め耐え抜いた人もいれば、辞めたり倒れたりした人もいたけど、身を守れば完遂できず、完遂すれば身体を壊す。そんな仕事に、「不自然」さを感じるようになった。

岡本さんの言葉を借りれば、生きる=自然であり、壊れる=不自然である。自分を壊してまでする仕事に、意味なんかあるだろうか。

違和感を感じたら、全てが気になるようになって、

“広告”という「人と人との出会いを作る」仕事が、「情報で人をコントロールする」不自然な仕事に見えてきた。

そして見つかったのが、病気(予備軍)である。

あくまで予備軍だし、畑や田舎に通うことで癒されてはいたものの、今考えればもう、度重なる不自然からの病気に、心が折れていたんだ、私は。

 

というわけで、もしかしたら本当に今だけの感覚かもしれないけど、長い旅が終わりつつあるような気がする。

感じていた違和感は、責任感や使命感という姿をしたものによって、自分で自分をコントロールしようとしていたこと。自分を壊すような環境に自分を置いていたこと。誰でもない、自分の選択だ。

だから今日からは、新しい「土」を探す。

それが何かは分からないけど、もうどんな土にも合うほど若くはないんだし、自分に合う土は自分で見つけなければならない。

農的暮らしから学ぶ -前編-

1年通った「シェア畑」は、8月末で解約することになった。

理由は遠いから。30分の農作業のために、往復2時間通うのが辛い。

f:id:tokyo100k:20180709234642j:image

夏の畑では、キュウリ、トマト、オクラなど、旬の野菜が育ち放題である。
育つのは野菜だけでなく、雑草だって伸び放題。全身蚊に食われながらの草刈りは、正直いって辛い。
だけど、あと1ヶ月半でお別れとなると、こんな格闘すらも名残惜しく、帰り際に自然と「ありがとう」が口をついて出てくる。

f:id:tokyo100k:20180709234631j:image

畑からは本当に多くのことを学ばせてもらった。

1つは、土をきちんと作って、ときどきメンテナンスしてあげれば、後は自然の力によって、大きくたわわに実るってこと。

もともと土いじりは好きだったけど、プランターとはまるで違っていた。小さい畑ながら、大地ってものの力を感じた。 

tokyo100k.hatenablog.jp

もう1つは、自分で育てた野菜は、なかなか形が揃わないってこと。

キュウリにしてもイチゴにしても、全てがいびつで個性的で、普段、スーパーで目にする野菜は本当に同じ野菜なのかってぐらい。  

ま、私の育て方が悪かったのかもしれないけど、自然ってこういうことなんだろうと。形をきれいに揃えるには、人工的で人為的な作業が必要なんだろうと解釈した。

tokyo100k.hatenablog.jp

こういうことを、すぐ人間に当てはめるのは悪い癖だが、人間も一人ひとりが、いびつで個性的な存在である。

f:id:tokyo100k:20180709234636j:image

としたら、人工的で人為的な枠にはめるより、自然に生きるほうが、大きくたわわに実るのではないだろうか。

必要なのは、その人に合った土(環境)に植えてあげることと、ときどきのメンテナンスを施すこと。それさえあれば、キュウリはキュウリになっていくのだ。

(続く)

平成への偲びに代えて

あの事件の死刑が執行された。

私の周り及びSNSで、これを話題にしてる人は一人もいなかったけど、私は気になって気になって、AERAの記事とか全部読んでしまった。

 

というのも、あの事件が起きたその日、私は中学の卒業式で、卒業式そのものよりこの事件のほうが印象に残ってしまっていて、

その後、私の世代だと、2年後に神戸のサカキバラ事件が起き、その翌年に和歌山のカレー事件が起き、その3年後にニューヨークの9.11がありって、

思春期の多感な時期に、信じられないような事件がたくさん起きて、

多感な年頃なりに(頼まれもしないのに)一生懸命葛藤したことを、思い出してしまうのだ。

 

当時も今も、葛藤の末に行き着くのは、こういう凶行を起こす人たちが、生まれながらに凶人だったわけではないってこと。いや、ない「はず」だっていう信念。「凶人」というレッテルが、孤独が、人を本物の凶人にしていく、というか。

勿論、凶行を擁護する意図はないけど、凶行ってのは、ある日突然起きるわけではなくて、ちょっとしたボタンのかけ違いが、ちょっとちょっとという内に大きくなって、とんでもない凶行に繋がっていく。そんなことを、思春期なりに考えていた気がする。

 

今回の死刑執行は「平成のうちに」とかいう事情で行われたものらしい。裏で重要法案とか決まってるかもしれないけど、表向きはそうらしい。

ただね、この教団って、最終的には凶悪犯罪集団と化したわけだけど、どうしてそれが起きたのかっていう社会病理的な部分、その本質自体は、社会から消えてなくなってないような気がするのだ。本人たちが消えただけで。

もし償う気があったなら、それを明らかにして欲しかった。たとえ小さな示唆だとしても、未来に残して欲しかった。

そういう意味で「死んで償う」は、最高刑じゃないのかもしれないし、平成の次の時代は、こんなことが起こらないようにしたい。

五感を満たす休日 -和菓子作り-

初めての「和菓子作り」を習ってきました。

教えてくださったのは、文京区本郷にある和菓子店「喜久月」さん。

作ったのは夏にふさわしい、水ようかん、くず桜、練り切りの朝顔に団扇と、やー、茶会でも開かないと食べきれそうにありません!

f:id:tokyo100k:20180701171619j:image
5人いれば5通りの朝顔

これら4品作るのにどれほどの労力がかかったか。実はとっても楽ちん。本気出せば1時間でできます!

材料も製法もシンプルだし、わざわざ高いの買わなくたって、粘土みたいにこねこねと、楽しく家で作れるじゃん!

f:id:tokyo100k:20180701172020j:image
団扇に骨の部分を刻印したところ

そんな気がする反面、グラム数とか分数(ふんすう)とかレシピに書き表せることと、熟練した職人でなければ分からない「勘どころ」とがあるのだそうで、シンプルゆえに奥の深い世界観を感じました。

f:id:tokyo100k:20180701172758j:image
くず桜の餡に気泡を入れて涼しげに

さて、私と和菓子との出会いは、今から20年以上前、高校の茶道部に入ったときでした。

部の当番で和菓子屋さんに行くたび、棚に並ぶは四季の風物。

まずは目で楽しみ、次いで抹茶との組み合わせを楽しむ。それだけでも贅沢だというのに、今回はそこに「作る」楽しみが加わりました。

「四季がある」という事実に対して、作って、見て、食べる。「四季を味わい尽くす」ってこういうこと。その余裕をこそ「豊かさ」と呼ぶのではないでしょうか。

四季のある国、それを楽しむ国、日本に生まれたことすらも、嬉しく感じるときでした。

2018年7月の行動計画

週末の宮崎行がキャンセルになった。フライトが欠航になったのだ。

残念は残念だけど、半分ちょっと安心したってのもあって、

今週はめちゃくちゃ疲れていたし、そもそも参加を決めたとき、シェアハウス騒動でまともな判断能力なかったし、それでも決断できたのはボーナス支給で調子乗ってたからだし、

明日本当に行くのかー、と考えていたところに、欠航の知らせである。関係各位には悪いけど、ちょっとだけラッキーだった。

さて、2018年も半分が過ぎた。

6月のトピックスは、

・会社で反乱を起こしたこと
・キャリアカウンセラーを目指すことにしたこと

人間覚悟を決めたら、大胆になれるもんだ。そして運よく、全てが割と好転している。

と、ウェイウェイいいたいところだが、悪いトピックスも1点。

・子宮頚がんの半年後検診で、症状が良くなってなかったこと(リスクは少ないが異常ではある)

半年かけてベンチマークした「理想」と、「現実」とのギャップに怒り狂って、自らそれをたぐり寄せようとした6月。しかし体は、小さな悲鳴をあげていた、と。

行動は大切だけど、体も大切にしないと、という今を、宮崎のキャンセルが象徴している気がする。墓参りの効果ではないだろうが。

というわけで、7月の方針と計画。

▼前提

・9月下旬~12月上旬まではGCDFで勉強漬けになる

▼方針

・全て楽しめる範囲で頑張る(疲れを感じたら止める)
・田舎ツアーは月に1回まで
・ワークショップ参加は週に1回まで
・浮いた時間を読書に投資
・シェアハウスとワークショップ主宰は「コミュニティとスキルシェア」を目的にする
・副業のライターとカウンセラー(とスナック)は、「楽しく働く人を増やす」を目的にする
・免疫力UPを目的に「休む日」を作る(NEW)

▼計画

・7/1 和菓子作りワークショップ⇒○
・7/7 キチのガレージセール⇒○
・7/9 農家さんのトークセッション⇒○
・7/10 上半期のふりかえりワークショップ
・7/14-16 むらコト奈良ツアー⇒○
・7/24 つながる場づくりワークショップ
・7/26 他人視点で「自分」を可視化するポートフォリオ作成ワークショップ
・7/29 シェアする暮らしの言いまわしドリル

ほか未定。

目的のないところに意味がある

週末の旅行では、香川の直島も訪ねました。

f:id:tokyo100k:20180626000555j:image

直島といえば、瀬戸内国際芸術祭や草間彌生で有名ですが、

本当はアートなんかより、海が素晴らしいんです、ここは。

f:id:tokyo100k:20180626000533j:image

瀬戸内の海は、穏やかな海。

ただ立って見ているだけで、妙に心が満たされる。

海なんか見たって、何の役にも立たないのに。それでも今、成立している、この瞬間はなんなんだ。

f:id:tokyo100k:20180626001224j:image

そんなことを考えていたら、「目的」に疲れていた自分自身に気づきました。

都会では、来る日も来る日も、タスクに追われる毎日。

「何のため?」と問い、目的が曖昧なものは捨てなければならない毎日。

効率的でなくたって、何の役にも立たなくたって、「ただ、好き」ということを、許されにくい毎日。

だけど、究極の目的って、好きなことをして、心を満たすことじゃないのでしょうか。

f:id:tokyo100k:20180626001624j:image

頭が真っ白だって良い。ときに、馬鹿なことをしたって良い。

自分が楽しむこと抜きに、「目的」なんかないのです。

関係性は「関心」が作る

約30年ぶりに、母、兄、私とで家族旅行をしてきました。

目的は墓参@松江。

岡山に転勤した兄が、最近車を買ったので、それで行こうということに。松江以外はノープランでしたが、岡山、鳥取、香川を満喫することができました。

f:id:tokyo100k:20180624225925j:plain
f:id:tokyo100k:20180624225948j:plain

倉敷(岡山)

f:id:tokyo100k:20180624225902j:plain
f:id:tokyo100k:20180624230658j:plain

総社&高梁(岡山)

f:id:tokyo100k:20180624225847j:plain
大山(鳥取

f:id:tokyo100k:20180624225830j:plain
f:id:tokyo100k:20180624225839j:plain

境港(鳥取

f:id:tokyo100k:20180624225822j:plain
米子(鳥取

本っ当にノープランだった割に、多くの素晴らしい景色だったり、写真こそないけど素晴らしい料理や温泉だったりに出会えて、これはひょっとしたら先祖の導きなんではないかと。墓参という行為を通して、先祖に「関心」を寄せたことで、得られた導きなんじゃないかと、感じることがありました。

なんというか、先祖だから「当たり前に」導いてくれるわけじゃないというか、「関心を払う」ことが大切なんだと感じたのです。

というのも、30年ぶりに旅行をした私たち3人(母娘はよくあるが、兄は久しぶりだった)。今は東京、静岡、岡山と離れて暮らしていますが、そこそこ仲が良いのは、母が「関心」を払い続けてくれているから。

「けんちゃんは××したがっている」とか「ゆかちゃんは今も昔も○○な子だ」とか、信憑性が低いときもあるにせよ、うざいぐらい関心を払ってくれるから、私たちは安心してくっついたり離れたりできるのです。これは血縁があるからといって、決して当たり前ではないこと。

つまり、30年ぶりでも旅行しようとか、それをそこそこ楽しめたとかいうのには、一定の関係性が必要で、その土台になっているのが、一定の関心なのだと。それには(ときにうざいほどの)不断の努力が必要なのだと、感じたわけです。

関心こそが、関係性を作る。

それは生きていようと死んでいようと、家族であろうとなかろうと関係なく、一朝一夕にはできないもの。それをショートカットすることはできないから、毎日続ける必要があると。

ウェットなのって苦手なんだけど、凄く大切なことに気づいてしまったっぽい、30年ぶりの家族旅行でした。

梅しごとと丁寧な暮らし

リトルトーキョーさんの「梅しごとワークショップ」に参加しました。

f:id:tokyo100k:20180623233617j:image

甘く熟した梅の香りがぷ〜んと漂う中、それぞれ500gを、梅酒、梅シロップ、梅酵素シロップに。

アクを取り、ヘタを取り、水気を取って、せっせと仕込むこと1時間ぐらいでしょうか。想像よりも簡単で、これは家でもしたくなる!

f:id:tokyo100k:20180623233538j:image

印象に残ったのは、梅1つ1つと「ちゃんと向き合う」ってこと。

大切なのは「効率」じゃなく、「丁寧に扱うこと」っていうんでしょうか。1つ1つが同じじゃないから、いちいちじっと、見る必要がある。

丁寧に仕込みさえすれば、後は時間が熟成させてくれるらしく、

普段、「15分で何個できるか」みたいな働きかたをしている私には、「必要な時間をかける」ってことが、とても新鮮だったのでした。

f:id:tokyo100k:20180623233547j:image

さて、今回私が仕込んだのは「梅酒」。3ヶ月後には完成しますが、しかし「梅酵素シロップ」なら、梅と砂糖で1週間でできるらしい!

ということで、これを機会に自分でも作ってみるつもり。

そして丁寧且つ健康な暮らしってやつを、そろそろ自分に取り入れたい!