差別の構造Ⅱ|それでも夜は明ける

アメリカでの反人種差別デモが、大きなニュースとなりました。

奴隷制廃止から100年以上経った今でも、差別が続いているその背景には「利権に屈する為政者」と「不安に屈する市民」の存在があるのではないかと書きました。

tokyo100k.hatenablog.jp

前回は、やや為政者側に寄ってしまいましたが、ではでは市民側はどうか。

自分が殺されかかっても、「差別は良くない」なんていえるのか、それを考えさせられるに至った、1本の映画を紹介します。


映画『それでも夜は明ける』予告編

2013年に公開され、アカデミー賞も取った映画『それでも夜は明ける』。

舞台は1840年代のアメリカ。「奴隷」が高値で売買された時代に、自由黒人(=法的に奴隷身分ではなかった黒人のこと)でありながら拉致され、12年もの間奴隷となったソロモン・ノーサップ氏の自伝が原作です。

 

私は子供のころ、『アンクルトムの小屋』という映画で奴隷制を学びましたが、今回の映画も負けず劣らず、惨い。奴隷制を描く以上、惨くならざるを得ないのでしょう。

・男女関係なく裸で並べられ、丈夫な「家畜」かどうかを品定めされる奴隷市場

・(ノーサップ氏が)優秀だったために、白人の中間管理職に睨まれ、首を吊られ殺されかけるも、誰一人助けようとしなかった農場での1日

・(当時の大産業であった)綿花摘みが巧く、白人の主人に気に入られたために性的搾取まで受けることになったノーサップ氏の仲間

・その彼女が働いたちょっとした粗相に対し、(主人の代わりに)ムチ打ちするよう命じられたノーサップ氏の葛藤

などなど、映像で見れば1000倍惨いから見て欲しいですが、私が悲しかったのは奴隷制というよりも、そこにいる人たちから「良心」が奪われていく過程でした。

 

奴隷制は昔のこと。

こんなに惨たらしいことは、今の世界では起きてない。

と、日本にいれば考えがちです。

 

が、構造として、近いことは起きているはず。

例えば会社で、学校で、正しくないとは分かっていても、権力者側に立ってしまうこと。弱い者いじめに加担してしまうこと。

最近多い「誹謗中傷」界隈もそうかも。同じ市民であるはずなのに、何が中傷に走らせるのか。「やらなければやられる」という「不安」が背景にあるのでしょうか。

 

さて、元の問いに戻ります。

自分が殺されかかっても、「差別は良くない」なんていえるのか。

・・・私にはいえません。

単なる「昔のこと」じゃない。人間はここまで、惨くなることができるのです。

だから体制そのものを、否定しなければならないのでしょう。

良心を奪われ、自分がその加害者になってしまう前に。