ゆかこの部屋

小さな幸せを集めて貯めるblog

映画『ソワレ』と、共にいるということ

映画『ソワレ』を見てきた。

終演後、拍手しそうになったけど、「あ、映画は拍手しないんだっけ」と手を引っ込めた。

ソワレ」で製作に徹した豊原功補&小泉今日子、日本映画への熱情 : 映画ニュース - 映画.com

ある事情から、逃亡することになった男と女。

未来のない、いわゆる「負け組」側にいる、孤独な若い男と女だ。

頼りない二人が支え合ったところで所詮は頼りなく、「人」という字が支え合わない。すぐにでも共倒れしてしまいそうな、危なっかしい道中。

一歩でも踏み外せば堕ちる。

それでも「共にいる」ということ………。

 

人が発する温度だとか音だとか、言葉のように頭で発し処理される以外の「存在」的なものに身を委ねたくなる作品。

思考でぐちゃーっとなった頭に、効く。

 

印象に残ったのはマニキュアのシーン。女の子「だから」辛い目にあってきた主人公が、女の子「だから」大切にされる喜びを知ったシーン。

気になったのはホースのシーン。まだあるはずだと信じていた母子の愛が、そこに残った水のように「切れた」瞬間だったのか。

それから神社のシーンで見せた険しい表情は………。

 

などなど、気になるシーンの応酬からは片時も目が離せず、製作者、演者と観客との間に一種の緊張関係がある気がする。

ところがその背景には、和歌山のゆったりとした海の姿や波の音。混線する思考を、それが優しく良い具合にかき消してくれた。

 

二本立てにするなら、同じく逃亡劇である『八日目の蝉』一択で。

安倍首相辞任と、「忘れない」ということ

2020年8月28日、安倍首相が辞めることになった。

Twitterで見かけたのは「#辞任と逮捕はセットだろ」というハッシュタグ

権力を盾にやりたい放題。確かに、逮捕されて然るべきだ。

 

が、レガシーなどなくとも、歴代最長の首相(とその周辺)。逮捕、逮捕と期待すれば、裏切られたときのショックは大きいだろう。

そこで私は、「忘れない」ことにした。逮捕はされないかもしれないけど、自分の意志で忘れないことはできるのだ。

 

そんなことを考えていたら、『26年』という韓国映画を思い出した。

これは、かつて民衆の蜂起を制圧し、独裁者として君臨した元大統領(実存)を、その犠牲になった市民の遺族が、暗殺しようとするフィクション。

印象に残ったのは、命を狙われる元大統領が、市民を死なせた責任をろくに感じることもなく「のうのうと」生き永らえているシーン。

安倍氏も逮捕されなければきっと、「のうのうと」生き永らえていくのだろう。

映画とはいえ実存する人物を殺そうとする韓国映画界も凄いが、しかし、ここまでしなければ、市民として「許しません」というポーズにはならないような気がした。

 

さて、安倍政権終焉に際し、日本映画で見ておきたいのは『新聞記者』。


安倍政権が「身内の優遇」と「巧みなメディアコントロール」を通じて、「やってる感」だけで生き永らえてきたことは有名だが、その細かい手口が生々しいぐらい詳しく描かれている。

フィクションではあるが元ネタは分かりすぎるほど分かるし、「こんな連中に命預けてたのかよ………」とショックも受けるかもしれないが、2020年を生きる日本の社会人として、ほとぼりが冷めないうちに見ておきたい作品だ。

 

米倉涼子キョンキョンの共演でドラマ制作の噂もあるし、「忘れない」ってことを、忘れないようにしなければ。

www.news-postseven.com

『丁寧な暮らし』がくれるもの

年下の女子たちと喋っていたら、口を揃えて『丁寧な暮らしがしたい』という。

頑張って働いてきた女子たちが、ステイホームを機に、家時間の価値を見直すことになったようだ。


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『丁寧な暮らし』は、今も昔も女の憧れ。

食卓に花を飾ったり、体が喜ぶとびっきりのごはんを作ったり。

 

私は何度も挑戦しては、何度も何度も挫折してきた。

SNSで素敵に演出された写真を見るたび、「あんなもの、旦那が稼いできてくれる女にだけ許された特権!」などと悪態ついたこともあった。

『丁寧な暮らし』には、時間がかかるからだ。

 

が、それでも挑戦してしまうのが『丁寧な暮らし』。

それは何故かというと、丁寧な暮らし=素敵に見られるためのもの、だけではなく、暮らしを整えること=自分を癒すことでもあるから。

 

例えば気分が優れないとき、ゆっくり家事をしてみよう。

ポイントは「ゆっくり」であること。

時間に追われればそれは苦行でしかないが、自分のペースで取り組めばちょっと楽しいばかりか、「自分を大切にしている」感覚と似てきて、癒されていくのが分かるはず。そして快適になった空間が、更に自分を癒してくれる。

ポイントは「ゆっくり」。とにかく「ゆっくり」。

 

ちなみに私が「暮らし」に目覚めたのは、今からちょうど1年前のこと。働き過ぎてボロボロになって、その立場から降りたとき。

tokyo100k.hatenablog.jp

時間に追われることから「降り」、久しぶりに自分で作った食事は、噛めば噛むほどおいしかった。

「LIFE」は「暮らし」とも「人生」とも訳するが、「暮らしの積み重ね=人生」だと、腹の底から納得した瞬間だった。

 

『丁寧な暮らし』とは、何もSNS上で素敵に見える暮らしだけを指すのではない。

自分が自分のペースで家のことを楽しみ、それによって心が豊かになる暮らしのことを指すのではないだろうか。

ポイントは「自分のペースで」。ただでさえ仕事が忙しいのに、間に「丁寧な家事」までねじ込めば、そりゃ誰だって辛い。できない自分に腹まで立って悪循環だ。

ではどうするかというと、仕事でも家事でも、自分のペースを分かり、決め、それを守ることだろう。

 

人と比べてどうこうじゃなく、自分のペースを分かっている人。

そういう人が周りにも良いオーラを発せられるのだとしたら、そういう人を作るのが、その人なりの『丁寧な暮らし』なのかもしれない。

映画『この世界の片隅に』と、それでも暮らしていくということ

原爆の日」に因んで、映画『この世界の片隅に』を見てみた。

あらすじは、広島育ちの主人公「すず」が、軍港のある街・呉に嫁ぎ、戦争を真隣に感じながらも、日々の暮らしを紡いでいくというもの。

戦争×アニメといえば、『火垂るの墓』や『はだしのゲン』が有名だが、その悲惨さを直接描いたこれらに対して、『この世界の片隅に』は、間接的に描くことで、逆にリアルに伝えている。そんな感想を得た。

 

「間接的。だからリアル」とは、どういうことか。

それは、今ある暮らしが失われる、ということだ。

 

主人公のすずは、絵を描くのが得意。

それは技能として得意なだけでなく、世界を美しく切り取るのが得意という意味で、日々、戦況が悪化する中においても、暮らしの中のキラキラ光る部分に目を向け、描こうとする姿が何度となく映し出されている。

現代でいえばちょうど、instagramが得意な人、みたいなものだろうか。美しい絵を描いていたすずの心が、戦況の悪化とともに歪んでいくのが、その絵を通して伝わってくる。

 

「間接的。だからリアル」とは、そういうこと。

原爆は誰にでも落ちないが、「暮らし」そのものは誰にでもあり、それを奪われるということも、誰にでもあり得る。

身近という意味で、リアルなのだ。

 

私は今年の夏、帰省ができなかった。

戦争に比べれば何でもないが、コロナとそれに対する行政の無策のせいで、当たり前だった暮らしが、一つ奪われたのだ。

 

社会にろくな政治がなければ、暮らしは少しずつ悪くなる。

すずの暮らしだって、突然奪われたわけじゃない。少しずつ少しずつ奪われて、気づいたら焼け野原になっていた。

そして初めて、為政者の責任を問うたのだ。

 

 

敗戦を告げる玉音放送の後も、しばらくの間映画は続く。

そこに映し出されたのは、暮らしを続ける人々の姿だ。

とにかく、今日を食べる。負けても、暮らしは続いていく。幸せかどうかなんて、考える余裕はなかっただろう。 

 

そうやって、脈々と続けられた暮らしの先に現在があるのであって、そうやって積み上げられたものを失うってことに、例えば私一人が、私一人の暮らしを奪われるだけではないものを感じた。

映画『はちどり』で、自分をいたわり抱きしめたくなる

『琴線に触れる』という言葉がある。

 心の奥に秘められた感じやすい心情を刺激して、感動や共鳴を与えること

とあるが、

考えるともなく心が共鳴してしまう、気づけばそこに迫ってきている、静かで繊細な感動のことだ。

 

『はちどり』という映画を見た。

内容自体は地味なのに、考えるより先に泣いていた。一夜経った今でも、心に何か残っているが、それを表現することはできない。

今考えれば、琴線に触れられていたのだ。

14歳だったことのある女性なら、見てみるのが良いだそう。女性監督ならではの繊細で優しい視点。今まで大切に育ててきた自分を、自分でぎゅっと抱きしめたくなるはず。


6/20(土) 公開!『はちどり』予告編

あらすじは、

1994 年、ソウル。家族と集合団地で暮らす14歳のウニは、学校に馴染めず、 別の学校に通う親友と遊んだり、男子学生や後輩女子とデートをしたりして過ごしていた。 両親は小さな店を必死に切り盛りし、 子供達の心の動きと向き合う余裕がない。ウニは、自分に無関心な大人に囲まれ、孤独な思いを抱えていた。

ということで、これだけ読んでも「見よう!」とはならないかもしれないが、まず秀逸なのは「思春期の日常」のリアルさだ。

授業中に友達と先生の悪口を書き殴ったり、ノートの中身は勉強よりも漫画だらけだったり、家では自分の声を録音してオリジナルのカセット(!)を作ったり、14歳だったことのある女性なら、あの頃の自分を重ね、「あったあった」と頷いてしまうのが其の一。

 

続く其の二は、そんな日常に潜む「思春期の悲哀」だ。

ドーーーン!と悲しいことが起きるわけではないが、思春期は、毎日が、少しずつ、悲しい。

例えば、昨日まで仲の良かった子が急に口を利いてくれなくなったり、両親は「男の子」である長男にしか期待していなかったり、その影響で姉が家に帰らなかったり、それ自体はちょっとしたことなのだが、思春期の心は「裸」だ。いちいち傷つき、しかし自ら立ち直る術を知らない。

心の傷は雪のように積もり、やがて主人公を蝕んでいく。見ているこっちは、辛いのか可哀想なのか分からないけれど、胸の奥を針で突かれたような気分になる。

 

そして、其の三にして最大の見どころが、『ヨンジ先生』との出会い。

再び「あらすじ」に戻ると、

ある日、通っていた漢文塾に女性教師のヨンジがやってくる。ウニは、 自分の話に耳を傾けてくれるヨンジに次第に心を開いていく。ヨンジは、 ウニにとって初めて自分の人生を気にかけてくれる大人だった。 

のだが、ほんっっっとうにこの人が、最高なのだ。

ただ優しいとも違うし、強いとも違う。

予告編を見れば分かる通り、先生の言葉はときに抽象的で、14歳にとって直接の答えになるものでもない。

だが、ただただ横にいて、2.3歩前から導いてくれる、ような。

そんな先生との出会いを通して、刹那的な日常に埋没していただけの主人公は、自我に芽生え、自らの足で立ち上がり、自分の意志で歩きだすことになる。

その過程を見ていると、勇気づけられるのか癒されるのか分からないけど、見ているこっちまで「うん、そうだ、大丈夫なんだ」という気分になってくる。

そして上映後にはどういうわけか、自分で自分を、抱きしめたくなってしまったのだ。

 

その心は多分、こう。

自分も14歳のときはこんなだった

それでも立ち上がり、歩いて来られた

自分にもヨンジ先生みたいな人がいたはずだし、この先もきっといるはずだ

この先もきっと、大丈夫だ

 

100人見れば100通りの感想がありそうな作品。私はこんなだったけど、あなたは何を感じるだろう?

 

animoproduce.co.jp

 

劇中歌『愛とはガラスのようなもの』


원준희 - 사랑은 유리같은 것 (1989)

 

さて、ここからはだいぶ私的な感想になりますが、主人公の母親について少々。

舞台は1994年のソウルということで、主人公を苦しめる「理不尽」の一つに、当時の韓国社会に色濃く残っていた「家父長制」が描かれている。

家に居場所がないために、ある事件を起こしてしまった主人公。それを父親が罵るシーンがあるのだが、ここで母親は何をしたかっていうと、主人公の味方につかず、いや、味方にはつかないまでも言い分すら聞かず、一緒になって罵ったんだよねぇ。。。

それに比べて私の家は、父親がいなかったので「家父長制」自体が存在せず、たまに理不尽なことがあるにせよ、両親が塊になって攻めてくることは(物理的に)なかった。その分、母親は強大だったが、子供なりに反撃の余地があった。

なので劇中、主人公が家族中から頭ごなしに否定されたのは、驚きというか衝撃というか、絶望的な気分になったのだ。

そして、主人公の母親にも兄がいて、「そのせいで大学へ行けなかった」なんて描写もあっただけに、「娘を同じ目に合わせてどうする!」と最初は憤ったのだが、しかし考えてみれば、母親自身もまた被害者。悪いのはそうさせてしまった「社会の理不尽」だった。

だとすれば、(理不尽に屈しない)強い母親のもとに産まれ、(理不尽に屈しない)生意気な女に育った私は、ある意味、幸せだったのかもしれない 。

うん、そういうことにしておこう。 

近況報告:わざわざ会うこと、受け容れること

7月13日。雨。

週に1冊は本を読むようにしていて、今週はこれを読むことになった。

 

「まえがき」の1行目からド共感。

近代社会は知識中心に動いてきた。「知識は力なり」は、それを予告することばである。知識尊重の思想が近代教育をおこした。学校は、知識の伝授に多忙で、生活が大切であることを忘れたか、それを考えようとはしなかった。

そうそうそう。

私も最近、一番大切なのは生活。そのために良い社会が要るのであり、そのために良い教育が要るのだ。

ということを感じていたので、良い本を選べたことに朝から気分が良くなった。

 

最初のテーマは、「日記」。

日記などあってもなくてもいい多くのことのひとつ

といいながら、6、70年も日記を書いているという筆者。結局、日記は「1日の決算」であり、「忘れるために」書くものだという結論に至ったらしい。

 

これを読んで数時間後、たまたま目にした壇蜜のインタビューにも、同じことが書いてあった。

私の場合、日記は物事を忘れるために書くんです。嬉しいことも、そうじゃないことも、書いてしまえば次の日まで持ち越さずに済みますから。たとえ嬉しかったことでも、その感情をずっと抱えたままだと、生きていくうえで足かせになってしまうことがある。だから、1回リセットして自分をまっさらな状態に戻したい。

fujinkoron.jp

 

なるほど。「忘れるために、書く」のか。

ところが、私は自慢できるほど忘れっぽいので、書こうが書くまいがすぐに忘れてしまう。したがって、忘れるために書く必要などない。どちらかといえば、「後から思い出す」ために書いているような気がする。

 

「後から思い出したいこと」といえば、先日、こんなことがあった。

言語化するのが難しい。けれど、とても温かくて、何度でもこんな夜を過ごしたいと思った夜だ。

それは7月9日。先日書いたバーのオープン準備をしていたときのこと。 

tokyo100k.hatenablog.jp

その場にいたのは、新店長のNさん(50代)、オーナーのRちゃん(40代)、元シェアメイトのTちゃん(20代)と、私(40代)の4名。

準備をしていたのはNさんとRちゃんで、Tちゃんと私はただ喋っていただけだけど、何だろう、誰かが頑張っている姿を、ほかの誰かが見るともなく見ていたり、誰かが真剣に喋っているのと、ほかの誰かが聞くともなく聞いていたり、大したことがあったわけではないけど、とても温かい時間に感じた。そんなことがあった。

それぞれの存在をそれぞれが味わっているというのか、真面目な瞬間もあればそうでない瞬間もあったけど、誰かが何かを仕切るするでもなく、ただそれぞれが何かをしている。そしてそれを、とにかく誰かが受け容れている。


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私はこの「受け容れる」というのを、「容」で表記するのが好きだ。それは「容器」に入るようにすっぽりと、包まれるような守られるような感覚があるから。 

私たちは、れっきとした他人なのに、たまたま同じ時期に同じ地域に住んでいただけの他人なのに、それだけ温かい時間を共にできることが嬉しかったし、これこそ私の目指す「共助」の形だと思った。

 

久しぶりに会ったので、話はやはりコロナに及ぶ。 

コロナによって、「こういう時間」が奪われたのだと。

こういう時間とはどういう時間か。オンラインでも話はできるじゃないか。なのに何故、わざわざ会わなきゃいけないのか。

未だに言語化できないけど、オンラインは目的ありきというか、テーマありきというか、五感でいえば視覚と聴覚は満たされるかもしれないが、それ以外の伝えるものを伝えることは難しい。

「ただそこにいる」ということを、伝え、受け容れるのは難しいのかもしれない。  

『日本沈没2020』から考えるコミュニティと共助

7月12日(日)。晴れ。

Netflixで『日本沈没2020』を見ました。 


『日本沈没2020』予告編 - Netflixオリジナルアニメシリーズ

見ることにした理由はもちろん、九州地方の豪雨です。

東京では「自分ファースト」な首長が再選されましたが、その翌日からの災害。

「もし東京でも起きたら・・・」的不安に陥ることも多く、心づもりのつもりで見てみたのです。

 

内容を簡単に紹介すると、

五輪が幕を閉じた2020年の東京で、巨大地震が起きる。震源の沖縄がまず沈み、関東地方も沈もうとする中、主人公の一家(都民)は歩いて避難を開始。その道中、予期せぬトラブルや悲劇に見舞われながらも、数々の出会いや奇跡を通し生き抜こうとする・・・!

30分のアニメが全10エピソード。半分で止めるつもりが、全部見てしまいました。やや情報過多な気もしたけど、前半はスリリングで面白かったです。

 

印象に残ったのは、「今っぽい」リアリティー

原作は1973年刊行ですが、コロナ禍を経験した今見ると、良い意味で気になるところが多い。

例えば、日本が「沈没」していく中で、政府は船をチャーターする。国民を国外に逃がすためだが、乗船順位はマイナンバーカードのある人がない人よりも早かったり、オリンピック候補など「未来が有望な若者」はもっと早かったり。

また、ある団体はメガフロート(海上に浮かべる浮体式の構造物)の上にコミュニティを作るが、これがいわゆる「極右」団体で、生粋の日本人しか乗船を許してくれない。

コロナでも、定額給付金マイナンバー騒ぎがあったり、留学生の支援策に「成績が良い子だけ」との条件が付され波紋を呼んだりしたように、災害でより露わになるのが、人権の不平等、そして分断です。

 

また、それに対する人物像の違いも描かれていて、それがタイトルに書いた「コミュニティと共助」に当たります。

全編を通して描かれているのは、「共助」しながら前へ進む主人公一家の姿です。中でも主人公の弟はハーフで完全に外国かぶれしているのですが、「日本のマスコミは本当の情報を流さない」といって、日頃ネットで交流している外国人から日本の災害情報を収集します。

一方、ストーリーの中盤に登場する「山奥の宗教っぽい村」には、「沈まない」という理由から多くの避難民が押し寄せてきますが、そこで人々は夜な夜な大麻を吸い幻想の中で踊っています。

雑で分かりづらいかもしれませんが、私にはこの対比が、国境を越えて人と繋がり、現実に立ち向かっていく前者と、閉鎖的なコミュニティに籠もり「見たいものだけを見て」暮らしていく後者に見えたのです。

 

こういう姿勢っていうのは、災害のときだけ出るものではなくて、「日頃の暮らしかた」で考えれば、常に社会に目を向け、自分のいるコミュニティで共助している人と、自分の見たいものにしか目を向けず享楽的に暮らし、困ったときには分断や差別に身を投じる人に分けられる・・・かなぁと。

こんな解釈になったのは、同じような対比を別の映画でも見たせいかもしれませんが、自分が目指したいのは前者。間違いなく前者だという考えに至りました。

近況報告:ホットヨガを始めました

7月1日より「ホットヨガ」を始めました。

 

コロナの自粛で太ったんです。

そして太れば太るほど、太ることが気にならなくなるという「妙」。

5月までしていた筋トレを6月からしなくなり、甘いものを口にすることも気にならなくなり、どんどん不細工になる自分を受け入れているわけではないけれど努力する気にもなれず、いよいよ大台が見えたとき、ホットヨガ「LAVA」のキャンペーンが目に入りました。

yoga-lava.com

3ヶ月通い放題で6000円ちょっと。

「その後9ヶ月は通常料金で通う」という条件はあるものの、4万近く得ですから、これは買いです、買い!

 

ということで通い始めたのですが、5日目にして早くも2kg痩せました。コロナ前に戻っただけともいうが。

ほかには、

①眠りがとっても深くなり、希望いっぱいで朝は目覚める。

②気分が前向きなだけでなく、頭も冴えわたり、勉強するのが苦にならない。

 

たった5日でこの成果。

今の自分に課題感があるなら「体からテコ入れする」に限りますね。体が整えば心が整い、心が整えば頭が働く。

この頃、頭でばっかりモノを考え、考える割に現実は良くならず。そんなジレンマから少し、鬱々とした日々を過ごしていましたので、ヨガですっかり解決したということは、後世に伝えたい成果でした。

 

ちなみに、代謝が良くなったせいか、1日の大半は小腹減ってます。

3ヶ月通う頃にはどうなることやら。

香港映画『十年』に見る「明日は我が身」

都知事選がよほどショックだったらしく、力が出ない7/6の朝です。

現職の得票率が6割って、投票率高くなかったとはいえ、私の視界にはそんな人いなかったけどねー。。。

 

といいたいところですが、そんなことはありませんでした。

先日職場で、こんなことがあったのです。

同僚A:東京の感染者がまた100人超えましたねー。

同僚B:超えたねー。

同僚A:GTT・・・また延期なんてことにならないと良いですねー。

同僚B:本当だねー。(感染者が増えたのは)野党の仕業かって感じだねー。

GTTというのは、『Go To Travelキャンペーン』のこと。

私の職場は旅行会社なので、このキャンペーンを利用して売上を増やそうとしているわけです。野党の批判を受け一度延期になったので、今度は感染者増で延期になることを危惧している、と。

うーん。

「利権」とまではいわないが、末端の社員ですら与党の恩恵を受けている。私もその一人なので、「異端」なのは自分でしょうけど。。。

 

GTTは国のキャンペーンですが、都民だったら五輪でしょう。五輪を推す現職でなければ困る人が、投票せざるを得なかったんでしょう。

経済的な理由から基地や原発を容認するしかない某県民のよう。ジレンマです。

 

 

さて、こんな日本の一歩先を行くのが香港。

「香港国家安全維持法(国家安全法)」が施行され、デモに参加した人が次々逮捕されているそうですが、これを異国のできごとと見るか、「明日は我が身」と見るか。

私は後者なのですが、週末にある映画を見て、実感が強くなりました。


香港映画『十年』予告編

2015年に公開された映画『十年』。Wikipediaによると、

5人の若手映画監督が10年後(=2025年)にディストピアとなった香港を描くオムニバス映画

で、各エピソードのタイトルは、

1.エキストラ
2.冬のセミ
3.方言
4.焼身自殺者
5.地元産の卵

何故、「10年後にディストピアとなった」かというと、正に「国家安全法」を盾に共産党が幅を利かせてくるからなんですが、それによる不自由さっていうのは単に「デモに参加すれば捕まる」だけじゃなく、じ・わ・じ・わと、暮らしのそこかしこに押し寄せてくるもの。足音も立てずに、気づいたときには隣にいる。そんな「感じ」が描かれています。

例えば、エピソード3『方言』では、北京語の普及が進む香港で、広東語しか話せないタクシードライバーが、営業エリアの規制を受け職に困る姿が描かれていたり、

エピソード5『地元産の卵』では、地産地消を推奨する食品業者が共産党の規制対象になり、「取り締まり」という名の嫌がらせを受ける姿が描かれていたり。

要は、暮らしの至るところに違和感が出てくるってこと。慣れ親しんだ社会なのに肩身が狭くなるってこと。空気を読んで合わせられないこともないが、やがて我慢できなくなったとき、エピソード4『焼身自殺者』のようにしか、抗議ができなくなるってこと。

 

違和感は、早いうちに打て。

ってことで、GTTも五輪も、意見は投票で示したつもりだったんだけどねー。。。

 

ちなみにこの映画、

自主制作映画であり、2015年12月17日の封切り時に上映する映画館は1館のみであったが、口コミによって評価が広がり、香港中で上映されるようになった

ということで、

まるで、『ポレポレ東中野』1館から始まり、今や全国で上映されている映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』のようですが、『なぜ君・・・』のヒットからリベラル気運の高まりを感じたのも束の間。香港の「一国二制度」は瀕死だし、東京は現職の圧勝。

 

民主制には時間がかかる。

って言葉を改めて実感いたしました。

権力っていうのは想像以上に、強大で恐ろしいもののようです。

近況報告:或るbarのこと

来週か再来週から、「bar」に関わることになりました。

playersbarr6.wixsite.com

コロナで休業していた店を再開することになり、オーナーにNew店長を仲介したのが私だったということから、もろもろ関わることになったのです。

昨日は合羽橋を見に行ったり、再開後の構想を考えたり、ひょっとしたらカウンターにも立てそうなときは立つかも。

ぜひぜひ遊びに来てください!

 

さて、barという空間に私は、得体の知れない可能性を感じています。近年、スナックを始めたがる若者も増えていますが、恐らく同じことでしょう。

barという空間に期待すること、それはサードプレイスというか、ローカルコミュニティというか、弱そうで強いつながりというか。。。

一言でいえば、家や職場と違って、年齢も性別も立場も関係なく、フラットに人が集まれる空間です。

客が一人でぶらりと来る。隣に座っていた人と、ただの人間同士として忖度抜きの本音を喋る。

bar=呑むというイメージですが、「呑む」なんてことは実は、緊張を取っ払うための装置でしかなく、本当のめくるめく世界は、その先に待っているのです。。。

 

そんなことを考えながら7年ぐらいが経ち、この度、こういうことになりました。

今年はコロナがあって、「分断社会」が明確になって、その分、barが担える役割も、大きくなっている気がしていて。。。

ともあれ、詳細はまた追って。ひとまずは簡単な近況報告でした。